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リヴァープレス社
●家と人。NET ●リヴァープレス社 TOP ●片言隻句(住まい編) 編集室●〒020-0002 岩手県盛岡市 桜台2-15-6 TEL019-667-2275 FAX019-667-2257 取材対象があっての原稿書きは訓練を積んできたつもりですが、一人称で書く原稿は慣れていません。練習台のつもりでこのブログを始めました。これまでお世話になった方々へ、感謝の気持ちを込めて書く文章が多くなりそうです。ご笑読くだされば幸いです。 ◎「家と人。」編集長 加藤大志朗 DAISHIRO KATO 以前の記事
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ライフログ
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午前、N子さんの工房を取材。 取材のあとで、ご主人からもコーヒーをご馳走になる。 素敵なご夫婦だ。 午後、放送局でラジオ収録の立会。 いつも思うことだが アナウンサーは、少しの揺らぎもなく 場当たりで間違いもなく、原稿をきっちり読む。 今度、そのコツを聞いてみたい。 夕刻、書家のYさんの工房で原稿受け取り。 書写を重ね、自分のなかに蓄え、それを皮膚感覚で 使いこなせるまでの血のにじみでるような努力に敬意を表する。 早朝、夢を見た。 Eさんと小川の縁の土手に座り、二人で春の陽光に きらきら輝く水の流れを黙って見ていた。 お日様の光と土手に咲くタンポポの香りに包まれていた。 言葉を交わすこともなく、安堵の時間。 いや、そこには時間は微塵も流れておらず、 にもかかわらず、その場面は次第にフェイドアウトし 音も光もない場面へと変わって、目が覚めた。 Sさんから、メール。 Eさんが亡くなった。 # by riverpress | 2012-01-27 22:00
25日。 朝から、また校正。 うんざりしているころに、ピンポーン。 建築家のYさん。 無理にあがってもらってお茶っこ。 「人間って、本能的に、美しいものを選ぶんです」 「イタリアには、一生、(修復だけで)新築をしない 建築家もいるんです」 へえ、と感心したところはメモをする。 若い人の話を聞くのが、このころほんとうに楽しい。 午後、T社。 いっぱい人が働いていて、昔、サラリーマンだった頃を思い出す。 人間関係が濃密だったり、希薄だったり。 そのどちらもあって、会社も悪くないなあと思う。 もう後戻りもできず、後悔もないが、自分の選んだ道。 これでよし。 26日。 朝から、アシスタントさんと校正の読み合わせ。 14時過ぎに、終了。 この3日間で10万字すべて声を出して読み、確認した。 いつもの通り、読むのはぼくの役目なので、 1時間に一度は、頭が酸欠になって休憩をはさみながら。 感無量。 あとは最終稿を残すのみ。 「いい本になったかなあ」とぼく。 「そうですよ、いい本ですよ」とアシスタントさん。 11月、わずか2週間で10万字を書き上げることができたのは 彼女の緻密な資料収集と裏付けがあったからこそ。 面と向かって 「この間、ほんとうにありがとうございました」 と頭を下げたら 「い、いいえ」といって、顔を赤くしていた。 この彼女も来週から長い産休に入ることになる。 夕食は、再校終了を祝って(自分にしかわからないイベントである) トマトソースのスープパスタを作る。 気分のいいときは、料理に限る。 できることなら、終日、料理をしていたいくらいだ。 オリーブ油に、ニンニク、ベーコン、タカの爪少々、 玉ねぎのみじん切り、余ったシメジやシイタケ、ホウレンソウ。 それらを痛めて、白ワインを加え、トマト缶を入れて いつもは入れない水、ブイヨンを加え 茹で上がったパスタにソースをぶっかけて終わり――のはずが スープパスタになっていない。 我が家はパスタを一人で2.5人前ほど食すので 大量のパスタにスープがすっかりからまってしまって フツーのトマトソースパスタにしかならなかった。 お料理本やネットのレシピも見たことがないので、 今度はちゃんと勉強しようと決意する。 でも、自分のパスタはどこのレストランのより美味。 NHK・BSプレミアムで「きらり! えん旅」という番組を視る。 きのうは宇崎竜童(山形・米沢市)、今日はつのだ☆ひろ(宮城・大崎市)。 「震災で傷ついた東北の力になりたいと、 有名人が立ち上り、歌やエンターテイメントを届ける」番組である。 宇崎竜童とつのだ☆ひろの「顔」がいい。 内容はあまり入ってこないのだが、一つひとつの場面に反応する この二人の目の動き、口のかたち、皺、手つき、息など、 身体の表情ばかり見入ってしまう。 大人の、嘘のない表情が、とても美しい。 大崎市の図書館で被災者を前につのだ☆ひろが歌った「川の流れのように」。 ひばりさんのオリジナルとはまた異なる情緒。 この人のコンサートに初めて行ったのが確か、19歳のときだった。 浅川マキのバックバンドでドラムを叩いていた。 あれから36年か。 記憶が清々しいほど透き通って、耳元で謳っている。 # by riverpress | 2012-01-26 21:18
23日。 朝から校正。 何度見直しても、地底から吹き出すマグマのように 赤字が出てくる。 書いているときは、自分なりにノッてるつもりでも 冷静に振り返ると、 いつもこんな程度でしかないんだなあと落ち込んでしまう。 文章に限らず、ふだんの言動や行いのすべては 客観視すると、しょせん、数えきれないほどの赤字を 含んでいるんだろうな、とも思う。 毎日が、一刻一刻が、添削。 だとしたら、かなりしんどい。 午後、ホームスパン作家のNさんの工房を取材。 効率や経済性とは無縁な 手わざを地道に継承しようとする姿勢に頭が下がる。 「気づいたら、この道、36年です」 ある作家が、「一つの道を30年以上歩んできた人以外の言葉を信じない」 と書いていたが、近ごろ、 その意味が少し理解できるようになってきた。 陽のあたる場所、金のありそうな場所、 安定しそうな場所を上手に選んで器用に生きる人もいれば そんなことなどおかまいなしで、 花も嵐も受けと止めてまっすぐに生きる人もいる。 どっちが正しいだなんていえないけれど、 何かを捨きって徒労に生きる人は、味わいがある。 そのまわりには美しい「場」ができていることが多いようだ。 24日。二戸市。 ビルダー向けセミナーでお話しさせていただく。 参加者20数名。 一人だろうと500人だろうと 大抵の場合、相手を目の前にした瞬間に その「場」を読む自信はあるのだが、今日はなぜか「場」が読めない。 会場との間合いがとれないのである。 こんなときには 相手ではなく、自分との間合いだけを調整する。 話を終えて質問を受ける。 「岩手型住宅をどう考え、つくっていったらよいと思うか」 設計事務所の方であった。 後世に継承するに値する社会資産としての 家のかたち(デザイン含む)をどう考えるべきかという話と拝察したが それが具現されていないのは 「まったく勉強しようとしない施主が悪い」との意見であった。 ああ、こういう「場」だったのか、とそのとき初めて「場」が読めた。 正論である。 しかし、その正論が、ぼくのなかに入ってこない。 大切なことは、答えを出すことではなく 不可解に耐えて問い続けること。 常々そう思ってうろたえてばかりだが、それは話さず 「ぼくには、わかりません」といって会を終えた。 ![]() ※ ホームスパンの工房で。 自然界に存在する色を糸と織りに具現する人の手わざ。 # by riverpress | 2012-01-24 22:15
20日。 東京の出版社から編集者のMさん、来盛。 駅近くのホテルで再校を受け取り、打ち合わせ。 仕事に厳しい人で 何もかも自分が劣って見える。 その劣っている部分を見事にフォローいただき 本のかたちが見えてきた。 10年ぶりの一緒の仕事となるが 勉強になることばかり。 21日。 整理しなくてはならない原稿、 自分が書かなくてはならない原稿が山積み。 全部を観ようとすると、気が狂いそうになるので 一つひとつに向き合う。 天に無。 足元に、すべて。 丁寧に丁寧にと、念仏を唱えるように。 22日。 10時30分、水沢の物件を撮影、取材。 朝、まとまった雪が降ったので、8時過ぎに出る。 ぼくのちょっとした自慢は、岩手県内ならほぼ100%の確率で どんな町、どんな村、 どんなに田舎の田んぼのあぜ道でも、所要時間が読めること。 着いたのは10分前。 4か月の赤ちゃんから小学生まで3人のお子さんのいる家族。 小さな赤ちゃんを抱えたお母さんは どうしてあんなにも美しく見えるのだろう。 色気や艶めかしさを超えて神々しささえ湛えて見える。 ご主人も小学生のお子さんも、みんないい顔。 家はともかく、いい顔の家族との取材は、 こちらの気持ちをほんわりほぐして、柔らかくしてくれる。 これまで数千の取材のなかで あとで落ち込んでしまうような取材は、五本の指で数えるほどしかない。 他者を見下したくてしかたのないハダカの王様的な人より 永続のなかにかすかな光を見出し、 小さな幸福を歓ぶことのできる、そんな人たちを心から尊敬する。 夜、NHKのBSで「開拓者たち」最終回。 毎回、父の家族と重なって見えて、 自然と涙が出てきてしようがない。 血の涙を流したであろう、あの時代を生きた方々に合掌。 # by riverpress | 2012-01-23 00:19
17日。 友人の住職Sさん、 昔、お世話になったスナックのママさんFさんと会う。 住職ともFさんのお店で知り合い、 なんだかんだと20年もおつきあいが続いている。 こんなぼくにでも「あんたとは、ご縁なんだな」 といってくれるのがなんだかうれしい。 お二人ともぼくより10歳以上も年上で、Fさんは独身。 昨年末に、90代のお母さんを亡くしたばかりである。 この年になると、みんな会うたびにお墓の話になる。 ぼくも、北海道のお寺に預けたままの祖父母や父が気がかりでいる。 「永代供養か合葬しかないわよねえ」 とFさんがいうと、住職は真顔になって反論する。 「人間は、家族や親せきとの関係だけで生きてきたんじゃないんだよ」 いつもは悪ふざけばかりの人だが、 ふと真面目になって、仏教の話をしたり、哲学の話をするときがあって そのときばかりは、尊敬してしまう。 さすが、四百年以上の歴史を持つ古刹の住職さんなんだなあ、と思う。 「墓というのは生きてるときと同様に、社会に開かれたものなんだ。 家族だけでなく、友人でも知人でも、 ちゃんと挨拶ができるようにしておくことも考えなきゃだめなんだ」 そうして歳月が経って、誰も来なくなるころに土に還っていく。 それが自然の姿なんだ、というのである。 「たまには、いい話するんですねえ」 といって冷やかすと、住職は少し照れて「俺も、一応、この道のプロだからさあ」 18日。 午前、R子さんに電話。 白内障の手術をすると聞いていたので、何か手伝えることはないかと お尋ねするつもりだった。 ところが、前々日にお母様が亡くなったという話。 声は気丈だったが、寂しくないはずはない。 こんなときに、力になれない自分が歯がゆい。 ご冥福をお祈りいたします。 午後、北上。 地元工務店の研究団体の会合に出席する。 県内随一の工業都市でありながら、原初的な農村文化が根強く残る街だけに、 市場のカラーも盛岡とは相当に異なる。 そんな街で地道に高い性能の家づくりに取り組む方々には つくづく頭が下がる。 どんな予算でも、家本体の性能だけは譲らないという カタブツばかりでもあるが、 あえて茨の道を選択して歩む彼らの顔つきは、ほんとうにカッコいい。 その場で家と人の会に入ってくれたCさんにも感謝。 この2か月で会員は久慈、宮古、北上で計3社も増えた。 自分もがんばらなきゃと思う。 19日。 花巻、S社取材。 テーマは、地中熱ヒートポンプ。 無尽蔵のエネルギーを最小限の電気で熱に換えるシステムは エネルギー小国・日本の生き残りをかける技術といっても過言ではない。 課題はイニシャルコストとその回収。 設備そのものより、掘削費用がかさむ現状が課題なのである。 「日本の将来がかかっていると思って、仕事をしています」 というYさんの言葉は重い。 ぼくたちは、その言葉をどう伝達していくかが仕事。 クライアントのなかには「もっと本の販売部数を拡大してほしい」という 直接的な要求も少なくないが、それは正解でもあり、誤りでもある。 販売部数が増えれば、確率論としてのレスポンスが高まるのは当然なのだが 量産された情報はスポット的にストックされる確率が高いかといえばそれは疑問で 単に「消費」される運命も内包する。 情報の量産は、生活者の感覚を麻痺させるリスクも秘めているのだ。 反面、少部数でも選択された人のなかに深く入り込み、 そこで熟成される情報のかたち、メディアがあってよい…はずなのだが 少部数では経済が成立しない。 つまり、儲からない→維持できない→休刊というリスクを 常に抱えっぱなしなのである。 また、こうして右往左往し、うろたえ、 地を這いながら「家と人。」は24号目の編集の真っただ中。 # by riverpress | 2012-01-19 22:33
午前、連絡業務で終わる。 メールの返事や原稿の催促、お礼、手配、問い合わせなどなど。 メールの人、FAXの人、電話の人、さまざま。 12人の方々とのやりとりで、3時間かかってしまった。 やはり、電話がいちばん。 声を聴き、自分の要望を直接伝えることができる。 レスポンスがリアルタイム。 なんで、メールなんか使うんだろうと思ってしまう。 昔のように、パパッと電話を有効活用しようと考えを改める。 午後、C社。 つたない取材にもかかわらず、真摯に応えてくださり ありがたく思う。 情報を伝える側の(手法の)未熟さばかり感じてきたが 最近は少し違うかも、と思うようになった。 情報を受け取る側の未熟さだ。 わかりやすく、丁寧にもほどがある。 伝えたい層にのみ、 深く伝える情報もありなのかもしれない。 そのことを教えていただいた。 取材からいったん事務所に戻り Nさん宅に向かう。 三回忌を過ぎ、あの日以来、ようやく仏壇に向かうことができた。 「Nさん、三年ぶりになっちゃった。ごめん」 と心のなかで呟きながら、お線香をあげさせていただいた。 去年もおととしも、 そして毎月、毎週のメモの筆頭に いつも「Nさん宅訪問」と書いてきた。 でも、今日までできなかった。 ご主人にもご無沙汰を詫びたが 「いつも気にかけてくれていること、わかってた」 3年ぶりで通った道。 街並みが少し変わっていた。 あの人はもういないのに、街がドクドクと脈を打って生きていることに 妙に感心してしまう。 事務所に帰ってすぐに、AさんからFAXが届く。 年末、お父さんが亡くなったのだという。 パソコンのないAさんなので すぐにFAXでお返事を書き始めたが、やめた。 そう、電話だ。 「たった一人のお父さんだものね」 「そうなんです。父親って、たった一人なんだものね」 「寂しいですね」 「そう、寂しいよ」 自分の身内以外の「死」は一見、とても遠いところにあるが 失った当事者である友人や知人を通して ぼくたちは会ったこともないその故人とも、 細い糸のようなものでつながっている。 世の中に二人といない誰がいなくなるなんて、 それが誰だって悲しい、さびしいに決まってる。 もう十年以上も前、まだ幼かった子どもたちと 夢中になって視ていた「大草原の小さな家」というドラマのなかで 重い病で死を間近に控えた人が 主人公のローラたちに向かって「毎日を最後の日のように生きなさい」と語る、 そんな場面があった。 とても、そんなことを考えて毎日を生きられないが そろそろ、自分もいつか死んでここからいなくなってしまうことを 頭の隅に置きながら、生きなくてはと思う。 いつかいなくなるんだったら、 いま、ここで精一杯、というのもありなんだ、きっと。 夜、アシスタントさんから電話。 「なんか、破水しちゃったようなんです」 「あ、そう。大事にしなさいよ」 「はい。明日、病院行ってみます」 電話を切ったあとに、カミさんに「ハスイってなんだ?」 と聞いてびっくり。 死と生がびゅんびゅんと音をたてて交差した日。 # by riverpress | 2012-01-16 23:35
月夜が何日も続いている。 星々のきらめきさえ消されるようなその明るさで 我が家の小さな庭を照らし 青のベールを幾重にも重ねたように雪を染めて 淡い木の影をそこに映す。 この静謐な光の勢いを 紙やフィルムに再現できる芸術家はきっと、この世には 一人として存在しない。 寒ささえなかったら、 夜明けまで、この光のなかで佇んでいたいと思う。 何度も庭に出て、 ブルブル震えながら月の光を浴びていると どこからかラジオの音が聞こえてくる。 毎夜のことだ。 耳を澄ませると、どうやらNHKのラジオ深夜便らしい。 窓を固く閉じた冬なのに これだけの音が外に響いてくるということは きっと耳の遠いお年寄りの世帯か、 一人暮らしで寂しい人なのかしらと、そんなことを勝手に想像してしまう。 誰一人、孤独に哀しむことのないように。 月に祈る。 # by riverpress | 2012-01-12 00:01
ノートの消費が減っている。 10年前と比べて、およそ10分の1。 1冊のノートを1年かかって使うことも珍しくなくなった。 以前は2、3回の取材で1冊は使っていた。 仕事が減ったのもあるけれど、メモそのものの量が減っている。 午前、A社。 午後、B社。 今日は取材の日と決め、この2件の取材に集中する。 メモする速度も遅くなっている。 ペンの走りがもたついて、ただでさえ記号のような字が さらに図形化し、わずか2、3行前に 自分の書いた字をあとで読む自信もまるでない。 これまで三十数年、テープもレコーダーも使わずに 取材をしてきたが、 このままでは、年内にもレコーダーのお世話になりそうな気配。 もう年だなあ、と不安がつのる。 が、悪いことばかりでもない。 取材にスピード感がなくなった分だけ、少しだけ間口が拡がった。 長年、焦点を絞り込んだ取材を旨としてきたが いまは、絶対に聞き逃してはならない要点を3つと決めて、 それ以外は何でも来い、どっからでも来い、 といった鷹揚さも身についたようだ。 細部を拾うことへの執着がなくなった代わりに 全体を見渡すゆとりのようなものができてきたのかもしれない。 これまで自分で決めてきた「取材は40分」という枠も取り払った。 聞き逃したことは、あとになってメールや電話で 「そこんところ、あとでメモで送ってください」という図々しさ。 最終的に、それなりになればよいという開き直りでもある。 過程を省いた結論の提示に慣れることは、とても怖い。 結論の創作は、もっと怖い。 どんなに緻密にデータを収集し、積み上げ、分析し、結論に導いても、 それらは事実の欠片にすぎず、所詮は、 仮説でしかないのである 対象の揺れに同調し、ともに揺れる。 揺れのなかから「芯」が湧き出てくるまで、じっと待つ。 それが出なくてもよしとする。 相手は人間なのだ。いつも、こちらが書きたいようなことばかり 話してくれるとは限らない。 自分を他人と比較することを、仏教では「慢」として戒めるが 自分の価値と相手のそれとを対象化するのではなく 相手の鏡のような存在に徹する。 自分を消す。 それはある意味、何の収穫も得られぬ取材となるリスクも孕むが どこからかやってくる偶然に遭遇できたときの歓びはひとしおである。 その偶然に、賭ける。 A社、B社ともに、取材は100分。 メモはほんの2ページだけだったが、それぞれの方から 素晴らしい言葉が発せられた。 メモにするとわずか1、2行にすぎないが、 全身が熱くなり、一瞬、呼吸が止まるほど感動的な言葉であった。 何度もお会いしてきた方々だが これまで自分は何を訊いてきたのだろうと、反省する。 結論だけを性急に求めていた。 言葉は常に、移動したくて、うずうずしている。 ぼくたちの仕事は あてどなく移動する言葉の収集と収束、編集であり 自らのフィルタは通しても、 それらを濾過する以外の役割をけっして負ってはならない。 以前、大先輩の新聞記者に同じようなことを話したことがあった。 「だから、おまえは怖いのだ」といわれた。 褒め言葉なのか、 そうした考えへの批判であるのか、いまもわからぬまま揺れている。 # by riverpress | 2012-01-11 00:32
年末年始は仕事。 自慢でも愚痴でもなく、自分でスケジュールを組んで そうしてきたのだ。 集中して文章を書いたり、校正を詰めたりするのには 電話や打ち合わせ、雑用のない、 まとまった休日がいちばんなのである。 7日は少しのんびりしようかな、と思っていたその朝に電話。 M子さんから。 「バリ島からおいしい果物を持ち帰ってきたよ」 早速うかがう。 ワンニという果物で、大人二人でも抱えきれないほどの 太く大きな木になるのだそうだ。 島の人は、収穫するのも難しいので 鳥がつついて落ちてくるのを、 早朝から、その木を囲みながらのんびり待っているという。 バリ島の旅の話を聞きながら ワンニをいただき、お昼には好物の海鮮パスタもごちそうになる。 8日。 八幡さまに初詣でも、とカミさんとクルマで向かう。 ところが、近くに行くととどの道も大渋滞。 ぼくたちのように、今頃になって初詣をしようという人が こんなにいるのに驚いた。 混雑はうんざりなので、そのまま引き返して、生協に買い物に行く。 たまには贅沢をしようと、 398円の天丼弁当を買って帰る。 夕刻、散髪。自称、刈髪。 昨年、ネットで購入したアメリカ製のプロ用バリカンが大活躍。 国内家電メーカーの半端な品より はるかにシャキッと刈れるので、気分もシャキッとする。 誰が見ても「どこが伸びてるの」と不思議そうな顔をするのだが ぼくにとっては8日が限度。 自分ではボサボサの状態に見えるが 世間の人にはけっしてそうは見えないらしく、 誰一人として、 ぼくの髪型など興味を示してはいないのだなあと そのことを考えるだけで落ち込む。 それでも、自分がシャキッとしたいので、週に一度の刈髪は欠かさない。 ちゃんと髪型のデザインもする。 横は2ミリで、頭上は3ミリ、前髪は幅6センチの長さ6ミリ。 この前髪の6ミリは ここが1ミリでも短いと、 出所したばかりのヤクザのおじさんにしか見えず ここが1ミリでも長いと、 志村さんの変なおじさんの変形風になる。 何年もかかってたどり着いたまさに絶妙ともいえる長さなのだ。 この秀逸ともいえるデザインに気づかれた人は、 相当な洞察力を有した人といってよい。 若干の痛ましさはあるかもしれないが、煩わしさのない究極の髪型なのである。 バリカンのあとは、本を持ち込んでゆっくり入浴。 よしもとばななさんの本をお風呂で読むのが日課となっていて 現在は「TUGUMI」。 お風呂からあがって、毎夜、読書中なのは「志賀直哉集」。 仕事はするものの、休日はどこかに隙間があって、やっぱりいい。 ![]() M子さんのうちでご馳走になったバリ島の「ワンニ」。 ![]() 皮をむくと寄せ豆腐のような感じだが 一口頬張ると 高級なアイスクリームのような甘さが口のなかいっぱいにひろがる。 ![]() 好物の海鮮パスタもご馳走になる。 何度、自宅で試してもなかなかこの味が出ない。 クローブなどの香辛料をいくつか使っているらしいが 詳しくは教えてくれない。 おかわり三つはいけるが、図々しいので黙っている。 後方にあるのはシソのジュース。これも美味。 # by riverpress | 2012-01-09 00:58
震災の直後から、節電のためにと居間の蛍光灯を使わなくなり、 その代わりにスタンドを購入、電球二つを使って間接照明としている。 スタンドといっても何も高価なものでなく お値段以上のニタリで買った2980円のものである。 電球はパラックボール。二つセットで特価580円。 60ワットの明るさだが、消費電力は13ワット。 LEDよりずっと安い。 以前は40ワットの蛍光灯3本だったので、 二つつけても、電気代は以前の5分の1ほどで済む。 一つは壁を、もう一つは天井を照らす。 影も色も消してしまう以前の白い空間から、 きれいな朱色の空間に変わり、 まるで、時間の尾っぽに重しがついたように、 時がゆっくりと過ぎていくのがわかる。 家族との会話の声も静かになり、たまにつけるテレビの音量も、 不思議なことに以前の半分ほどでよく聞こえる。 夜の底から沸々と湧き出る唸りを感じ、 空間の隅っこに、 何かが隠れているような気配。 そんな時間がすっかり気に入って、夜更かしが多くなった。 そういえば、子どもの頃に過ごした 鉄道官舎の6帖一間の「家」の灯りも、天井から吊るされた 電球一つだけだった。 その灯りの下で父は新聞をひろげてちびちび酒を飲み 母は隅の方で縫い物をしていた。 妹はどこにいても、そこにいるのかいないのかわからぬほど静かだったが ぼくはいつも、ばあちゃんに買ってもらったおもちゃの刀を振り回し 狭い部屋のなかをぐるぐる走ってばかりいた。 それをやめるのは、あのB型母がぼくをギッと睨みつけ 大きな裁ち鋏を振り上げるときだけで (その鋏では実際何度も叩かれコブをつくった)、 言葉などなくても、家族は一つにつながっていた。 ある人が「3.11のあの日が懐かしい」という話を 聞かせてくれたことがあった。 電気もガスも水道も止まったなかで、 家族が寄り添い、ロウソクの灯りに一人ひとりの顔が 浮き上がったとき「初めて、家族と濃密な一体感を得た」というのであった。 それは「闇ではなく、わずかな光のシワザに違いない」 との考察には感心させられた。 場所というのは、それぞれ固有の時間を呼吸しているが 灯りや影は、その時間をいかようにでも演出する。 パラックボール二つで こんなことがわかってきたのだから 本物の「炎」の灯りだったら、どんなにか素敵だろうと思う。 ストーブは高価なので、今度は、ロウソクのスタンドを購入しようと、 本気で考えている。 # by riverpress | 2012-01-07 00:29
Sさんと初めて会ったのは、もう30年以上も前のことである。 家のことに関わり始め、 右も左もわからずに、寒くない家、省エネルギーの家の普及だけを願って 取材をはじめたが、その多くの現場でSさんの姿をお見かけした。 大手メーカーに属してはいるものの 自社の製品を営業することは一切なく、ただひたすらに 日本の住宅の性能向上を願って、業界に地道な働きかけをしていた人である。 盛岡で、青森、山形、福島、宮城、そして東京をはじめとする関東各地で その後もSさんとは数えきれないほどお会いし、 その都度、最新の情報を頂戴した。 Sさんの鞄はいつも資料でいっぱいで、これについて尋ねたいとうかがうと 厚さにすると数十センチもの資料のなかから、 Sさんはその資料をすうっと抜き出し、そのままぼくに渡してくれた。 昨年5月には東京でお会いし、 断熱改修に関する情報の流通について、関係者の方々とともに懇談した。 その後すぐに東京の出版社から本を出すことになり 編集が始まる。 そのことを伝えると、Sさんは「あらゆる面で協力します」と電話をくれて そのときもまた、いくつものデータを メールでぼくに送ってくれたのである。 東京の帝国ホテル、パレスホテル、東京ドームホテルなど、 超がつくほどの高級ホテルで、 打ち合わせを兼ね、何度も食事をごちそうになった。 豪快なSさんは、場末の居酒屋でもそれらのホテルでも態度は変わることなく 酔いが進むと、テーブルの下でズボンの裾をめくって すね毛だらけの脛をあらわにし 日本の住宅の未来、日本人の行く末について熱く語ってくれた。 映画俳優のようなハンサムな顔つきだが いつのころからか歯の何本かが抜けてしまい、いささか顔つきは変わったが 豪快な笑いとテーブルの下で裾をめくる癖はそのままだった。 編集中の本のゲラができ上がってきたのは12月28日である。 文中には編集者の赤がいくつも入れられ、 改めて、自分の原稿の詰めの甘さを確認する作業ともなった。 Sさんから頂戴した資料に基づき、断熱改修に関するページを書いた。 その部分も入念にデータを確認し、 本ができたら真っ先にSさんに届けようと思っていた。 そのSさんの訃報が届いたのは、31日のことである。 同じ会社のTさんがわざわざ知らせてくれた。 すい臓がんだった。 6月頃から体調を崩して、入退院を繰り返していたとのことであった。 Tさんにも訃報が届くのが遅れ 年末のこの時期には移動もままならず、葬儀への出席を見送ることになった。 亡くなったのは28日と聞いて 何かのめぐり合わせのようなものを感じざるをえなかった。 住宅への投資は将来の生活への投資であり 国レベルでは福祉への投資にほかならない、というのが Sさんの考えであった。 自社の製品はその一部にすぎないと、あくまで大局的な立場から 業界はもちろん、政府にまで胸を張って持論を述べた。 「カトーさんは伝えるのが仕事なのだから」 と、Sさんの働きかけで、 東京を経由して全国に発信できた情報も数えきれない。 その都度、電話をくれて「よーく、やってくれました!」と褒めてもくれた。 大晦日、元日。 Sさんからもらった資料の束を整理する。 厚さにすると、10センチもの束になった。 過去のメールを振り返る。 「過去に建てられた5千万戸の不良ストック住宅に住む人たちに、 『いい人生であった』といってもらえる終の棲家の再構築が必要です」とあった。 昨年6月16日付のメールである。 ちょうどSさんが入院する頃に送られてきたものだ。 Sさんは自身の寿命を、 このときすでに知っていたのかもしれない。 Sさん、ありがとうございました。 あなたのことは、生涯、忘れることはありません。 そして、あなたから教わったことを 少しでも多くの人に知っていただくよう、努めてまいります。 合掌。 # by riverpress | 2012-01-01 18:18
26日。 読者のMさん宅、撮影。 1年半越しの計画を経て建てたられた家である。 「加藤さんが来てくれて家が完成しました!」との言葉にクッとなる。 しあわせそうな人の顔を見ると、しあわせになる。 顔って「布施」なんだなあと思う。 27日。 原稿整理と現像。 誠実にと心がけたつもりの先週の取材だったが 圧倒的に量が少ない。 情報の量と質、誠意や熱意が一致せず、落ち込んでしまう。 午後、Sさんのところに伺い、笑顔を拝見して、少し気が晴れる。 28日。 午前、画家のO先生宅。資料をお返しに伺った。 「確かさ」よりも「揺れ」のなかで 自分を深めていく姿勢に、つくづく頭が下がる。 極めることより 揺れる過程が自分を高めていくんだなあと思う。 まだまだな、自分は。 午後、人形作家のUさんの工房で取材と撮影。 古い民家を改造した工房だが、 畳や敷物、無造作に置かれた小物や器など、 どこを見ても絵になる。 「どうして、こんなにきれいなのかしら」と尋ねると 「何一つ、大事じゃないものってないのよねえ」 モノでも人でも、慈しむ気持ちが、それらを美しくする。 モノにもやさしさ。 夜。 宮古や遠野、紫波町のNPOの方々、県立大学のS先生と一献。 宮古のSさんは、震災以来初めての盛岡。 みなさんから、被災地での支援の様子をうかがう。 29日。 東京の出版社からゲラが届く。 元原稿の段階で、あれだけ苦しんで書いたはずの原稿だが 改めてゲラで読むと、なんと稚拙な、というのが率直な感想。 パラパラとめくるうちに、青ざめる。 真っ赤になるまで入念に赤を入れて返そうと決意。 午後、ピンポーン。 建築家のYさん、来所。 ちょうど、ブーッとオナラをしたばかりだったので 慌てて換気扇をつける。 あとからカミさんに聞いた話だが、 「よく、あんなに臭いところでYさん、がまんしたねえ」 外面がいいだけの人ではなく 内に内にと自分を追い込んでいくタイプの建築家。 あらゆる装飾を排して、無から有を搾り出し そこからほんのりと漂うような美しさが醸成される、 この人の家が好きだ。 いつか教会を設計してみたいという。 いつか、その教会を撮ってみたいと思う。 30日。 早朝から、ゲラと格闘する。 頭がボーッとしはじめた10時頃、ピンポーン。 工務店のAさん、来所。 積もり積もった話をうかがい、あっという間に3時間。 途中、E社のNさんから携帯に電話。 復興の大変な時期にお父さんを亡くされたことを知らされる。 明るい声が救いだった。 自分自身では、年末の実感が少しもないが 周囲はかなり慌ただしい。 大掃除もできないまま年を越しそうな気配。 # by riverpress | 2011-12-31 00:06
18日。 以前から楽しみにしていた映画「光のほうへ」(デンマーク映画)を観る。 アルコール中毒の母親からネグレクトされて育った兄と弟。 まだ乳飲み子だった三男の弟を亡くし、 深い傷を抱えたまま大人になった二人だが 成長してからも貧困、暴力、犯罪、アルコールや麻薬への依存など 生と死、個と社会の狭間で苦悩する。 やがてかすかな希望を見出していくのだが しかし、映画は安易なハッピーエンドで終わるのではなく 最後まで、人間という個体と家族という集合体が持つ残酷なつながりと そこに潜むか細い光を丹念に描く。 もう一つ、この映画で興味深かったのは、 家のなかの光景だ。 舞台は、デンマーク・コペンハーゲンの最貧困地区。 にもかかわらず、生活保護の対象となる人たちが住む臨時宿泊施設でさえ、 洗練されたデザインの照明器具や家具が備えられ、 開口部下部には必ず、温水パネルヒーターが設置されている。 最下層の人たちの住居でさえ、 日本では最上級クラスとされる温熱環境と室内環境が標準仕様。 その一点だけでも、 デンマークが福祉の最先端を歩む国であることを、如実に物語る。 「住」が、人が生きるための礎として 少しの揺るぎもなく、位置付けられているのだ。 映画のチラシに、 金子みすゞの詩「明るいほうへ」が引用されている。 接点などまったくないはずのこの詩と映画だが 映画のあとで読み返すと、沁みる。 明るいほうへ (金子みすゞ) 明るいほうへ 明るいほうへ。 一つの葉でも 陽のもるとこへ。 やぶかげの草は。 明るいほうへ 明るいほうへ。 はねはこげよと 灯のあるとこへ。 夜とぶ虫は。 明るいほうへ 明るいほうへ。 一分もひろく 日のさすとこへ。 都会に住む子らは。 ![]() 『光のほうへ』(114分/デンマーク/2010年) 原作:ヨナス・T・ベングトソン 監督・脚本:トマス・ヴィンターベア 出演:ヤコブ・セーダーグレン/ペーター・プラウボー/パトリシア・シューマン /モーテン・ローセ # by riverpress | 2011-12-19 17:42
11月を振り返ると 何もかもが無我夢中で、何をやってきたのか、 思い出すこともできない。もう遠い日のことのようだ。 気が付くと12月。 月初めから体調を崩し、耳下腺炎を患う。 唾液が出にくくなる病気で、ものを食べると痛みとともに 左耳の下部がおたふく風邪のように、ぷっくら膨らんでしまう。 何日も熱が続いた。 せっかく段取りいただいた忘年会もいくつか欠礼してしまった。 前日までの腫れも熱も少しおさまって、10日-13日は北海道。 実家に2泊。 12日は札幌に移動して建築家のAさんを取材。 ところが、岩見沢付近で60センチもの積雪。 電車は大幅に遅れ、すすきののホテルで待ち合わせをしていた Aさんにとても迷惑をかけてしまった。 Aさんは携帯電話もパソコンも使わないアナログの人なので 連絡をとりようがなかったのである。 Aさんは、ホテルのラウンジでのんびりコーヒーを飲みながら 待っていてくれた。 夜、すすきのの街を歩く。 歩道は融雪されているが、車道は積もった雪がクルマに舐められ クルマはおそるおそる、人が歩く速度でしか走っていない。 横断歩道ではどこでも ほぼ100%の確率で誰かがスッテンころりんと転んでいる。 札幌の人は転び方がとても上手で 前のめりでも、しりもちでも、大きな動作でとても不格好に転ぶ。 転倒時、身体に力が入っていると、 骨折の可能性が高くなるので、この転び方は正解なのである。 全面ガラス張りのおしゃれな店があったので入ってみた。 通りに面したそのガラスに、 スペイン語でメニューが書いてあった。 一階がカウンターだけのBARで二階がレストラン。 BARの端っこに陣取り、通りを眺める。 昼の札幌は嫌いだが、 冬の夜は街の灯りが路面の雪を照らし さらさらと降り落ちる雪がレースのカーテンのようになって、 街全体を淡いミルク色に染める。 仕事を終えた人たちが 色とりどりのコートやマフラーに身を包み 楽しそうな表情で歩いていく。 こんなに清潔な華やかさは、東京にも盛岡にもない。 野菜のバーニャカウダ(これはイタリアン?)、 スペイン料理定番のアヒージョ・魚介のオイル煮を肴に スパークリングをグラスで。 昔、スペインにも何か月かいたことがあるので懐かしい。 でも、ぼくはパンチの利いたスペイン料理より 隣のポルトガル料理のほうがずっと好きだった。 日本の煮物料理の味付けに近いこの国の料理が スペインやイタリアのそれに比べて マイナーにしか扱われていないのが不思議でしょうがない。 身体を通りに向け、ガラスの向こうを眺めていたら バーテンダーさんが 「どちらからですか」と話しかけてきた。 注文のときの言葉で、道内の人ではないと思ったのだという。 長い岩手暮らしで、自分でも知らぬ間に、 こちらのアクセントになってしまったのだ。 少し複雑な気持ち。 「でも、生まれはこっちで、高校はT高校だったのですよ」 というと、バーテンダーさんは少し興奮した様子で 「え、ぼくもT高校なんです」 高校を卒業して大阪の専門学校に行き、その後は東京のスペイン料理店で 3年間修業を積んで、この店に入ってまだ数か月。 近い将来は独立して自分の店を…。 バーテンダーさんは、訥々と自分の夢を語り 大好きなお父さん、お母さん、お姉さん、弟さんと、 家族一人ひとりの話を聞かせてくれた。 二階のレストランは混雑していたが、BARの客はぼく一人。 きらきらした眼で自分を語るまだ20代の青年は、とても綺麗で眩しく見えた。 帰り際、「素敵な店を持てますように」 といったら、 「ありがとう」といって手を差し出した。 札幌を離れて、30年。 当時、このことは絶対に忘れない、と誓ったことの大半が 記憶の深いところで封印されてしまっている。 思い出すためには忘れなくてはならないが、 思い出されることもないことが、どれほどたくさんあることか。 人には前を向いて歩いていくために 不要な記憶を捨て去る 自動制御装置のようなものが備わっているのかもしれない。 会うたびに老いていく母に会い、 父が定年まで働いていた駅で電車に乗り、 懐かしい札幌でAさんと語り合い、 素敵な店のバーテンダーさんの話を聞いて 今回の出張は終わり。 この旅のことも決して忘れないと心に誓うが、 思い出の取捨選択は、 神さまの計画に委ねることにする。 ![]() ※ 実家に帰るたび、ほぼ定点で駅の写真を撮る。 生まれてから5歳まで、 この駅の隣にあった官舎で育った。 ホームも駅周辺の通りも家の前も、 蒸気機関車の煤煙で灰色に汚れ、白い雪など見たことはなかった。 いまは、真っ白な雪に覆われ、美しいモノクロームの映画を観ているような気持ちになる。 # by riverpress | 2011-12-14 22:00
28日、釜石。 地元工務店10社と懇談。 中心部は壊滅状態。いまだ、信号も消えたまま。 復興計画が進まぬなか、 建物の修復も大半が手つかずである。 同市Bホテル泊。このホテルも1階部分は大破の状態だった。 29日、大船渡。 地元工務店9社と懇談。 ちょうど1年前の12月にお会いした方々も数人。 手をとって「ご無事でうれしいです」。 この言葉しか出てこない。 会社を流され、社長やご家族を失われた方もいる。 昨年会場だったホテルも、一緒に飲んだスナックも跡形なし。 少しだけやつれて見える皆さんの顔に、こみ上げてくるものがある。 先月は久慈から宮古を回り、今回は金石から大船渡。 今回は被災地だけで計40社ほどの工務店の方々とお会いし、 一人ひとりからお話をうかがうことができた。 機会をつくってくれたT社の方々には心から感謝申し上げます。 みなさんから発せられた言葉の数々は、生涯忘れることはありません。 30日。 この3週間、ほぼ缶詰状態で書いてきた原稿を東京の出版社に送る。 実際には2週間で書き上げ、1週間で見直しをかけた。 連日、0時前に床に就いたことはなかった。 11万9000字。 大雑把に書き進めてきたが、 計算すると約束の12万字にほぼ合致。職業的な勘というのはすごい。 今回は編集者としてではなく、一人の書き手としての仕事。 あとは出版社の編集者の支持を仰ぎ、本格的な編集に入ることになる。 今回の仕事でわかったことが三つ。 1.自分には編集よりも、書くことに徹する方が向いていること。 2.自分はお金になる仕事よりも、 お金にならない仕事に歓びを見出す癖があること。 (商売・仕事という概念を持ち得ていないこと、適性がないこと) 3.価値のある場所に行くには、近道は存在しないこと。 12月1日。 急に気忙しくなってくる。 後回しにしてきた仕事や雑務に一気に取り掛かる。 K子さんとお会いする。遠心力に満ちた発想、生き方に感服。 2日。 朝から原稿を2本。 次号「家と人。」の原稿依頼――と、これだけで20人分。 脱力感を引きずったまま こんな自分のままでいいのかしらと、空しさ。 これでいいのだ、これしかない。 そういう思い込みをしている自分を破壊する方法を いまは持ち得ていない。 昔だったら、こんなとき、ふらりと旅に出た。 が、それもできない自分を恥じることもない。 自己を見極める矜持が、 内に向けば向くほど、遠くには行けないものの、深くに行けそうな気がする。 ![]() ※ 釜石市内中心部。 この光景を、しっかりと目に焼き付ける。 # by riverpress | 2011-12-03 00:02
O先生の個展初日。 場所は市内のデパートである。 何カ月も前から、このデパートに行くことだけが憂鬱で いよいよ今日という日になってしまった。 アジアの都会や東京、大阪などのカオスのなかでは 不思議と心は静かになっていくのだが、 子どものときから、中途半端に人が集まる場所が大の苦手だった。 画集の出版元である以上、アートという華のある世界である以上、 花の一つも会場に届けなければならない。 花を贈るのがいやなのではなく、 この自分が花屋という場所に、絵画の個展という場に 一瞬でも身を置くことを想像するだけで、なぜか両の膝が震えてくるのだ。 一人で行くのは耐えられないので アシスタントさんとカミさんを連れ立って行く。 デパート地下2階の駐車場にクルマを止める。 狭く暗い空間に、ベンツだのアウディーだの高級車が何台も止まっている。 クルマに金をかける種類の人間が 理解できないので、ここでまず、イラッとする。 クルマを降り、地下一階の花屋。 店に入るなり、アシスタントさんとカミさんが目をキラキラさせながら これきれい、あれいいねえ、と話し始めたのでイラッとする。 バスケットに飾り付けされた花が目に留まる。 ちらっと値段を確認し、 即決で店のおねーさんに「これください」と頼む。 アシスタントさんとカミさんの二人に「なんでそんなに迷わず決めるのだ」 という視線を感じたが無視をする。 おねーさんは「カードとか付けますか」とかいう。 「カードってなんですか」というと「名前とか」とかいう。 冷静を装いつつ「俺は早くこの場を去りたいのだ」光線を送り続けて 「カード、お願いします」と答える。 おねーさんは、カードをぼくの前に差し出した。 「?」とぼく。 「どーぞ」とおねーさん。 「私が書くのですか」とぼく。 おねーさんはニコッと笑って見せたが、ぶさいくな顔だった。 イラッとして「書いていただけますか」とカードをおねーさんに差し戻す。 おねーさんは目がマジになった。 決心したように筆ペンを持ち ぼくのいうとおりに社名とO先生のフルネームを書き始めた。 おねーさんの字は、思い切り下手だった。 ぼくが左手で目を閉じて書くのと同じくらい、ひどい字だった。 幼稚園のちょっと優秀な子どもが書く程度なのだ。 カードを書きたくない理由がわかって、 おねーさんに申し訳ない気持ちになった。 エレベーターに乗る。 アシスタントさんとカミさんは、機嫌の悪いぼくを察してか 黙って静かにぼくの後ろについてくる。 まるで女郎二人を連れて歩く女衒のような構図である。 あとからあとから人が乗り込んでくるので、 ずっと「OPEN」ボタンを押し続ける。 が、誰一人としてありがとう、がない。 個展会場に着くころには、自分の顔がこわばっているのがわかった。 会場に入ってO先生と目が合うなり 無理にニコッと笑った自分の顔を自分で想像するだけでむかついた。 デパートの会場担当者のおじさんは ぼくたちを一目見ただけで「こいつら客じゃねえ」と思ったらしく はなっから無視される。 それでもO先生は精一杯のやさしい顔で差し出した花を受け取って ぼくたちを案内してくれた。 生まれてから今日まで、女の人に花を贈ったことは3度しかなく こんなに素敵な顔をしてくれるのなら なぜ、もっと頻繁に花を贈ることをしなかったのかと、後悔する。 撮影が間に合わなかった絵も数点あったが 画集に収録した絵がたくさんあって、なんだか懐かしい気持ちになる。 絵をぐるりと見ていたら 後ろのほうで、O先生に話しかけている男性がいた。 「雪、(描くの)難しいのでしょうね」 「そうですね」 「ここにある雪の絵、みんなあたたかいですね」 あたたかい雪…。 なんて凄い言葉を使う人なのだろう。 そっと振り向いてみると どう見ても何十年も昔の型のジャケットをほわっと羽織った 小肥りの中年男性だった。 画家もしくは物書き、もしくはサラリーマンではない職業の人かもしれない。 固い気持ちが瞬時にはんなりと解けた。 さ、行くぞ。 アシスタントさんとカミさんに、顎でサインを送り 会場を後にする。 あたたかい雪、あたたかい雪、あたたかい雪――。 数カ月も画集の編集に携わり、 雪の作品も何枚も撮影していながら O先生の描く雪が放散させる温度に、少しも気づかなかった自分。 イラッとする。 # by riverpress | 2011-11-25 00:51
朝も昼も好きでも嫌いでもないが このところすっかり夜型となって、就寝は毎日午前さま。 かといって夜がいちばん好きなわけでもないが あらゆる景色は闇に埋もれて、 星だけが光っているなんて、よく考えると、奇跡のようなことかもしれない。 落ち着くことだけは確かなようで 朝や昼より、少なくとも、やさしい自分がいる。 誰に対してというのではなく、自分にやさしい、つまり自分を許せる時空間。 今日で、約束の12万字のうち97000字を書きあげる。 あとは、4人分のインタビュー各3000字を残すのみ。 これまで某雑誌に連載してきた2万字をそれに加え、1冊にまとめ上げる。 「私」という言葉を一切排除した一人称を意識した。 ほかの仕事の合間を縫って、正味2週間で仕上げたことになる。 自分にもまだ、こんな力が残っていたのかと少しセンチメンタルになるが 達成感もそれなりにあって、しかし、それを分かち合える人はいない。 チームワークが基本の仕事の多いなかで、 本を書くというのは、 あらゆる意味を削がれた闇のなかで 一人ぽつねんと立っているような、ほんとうに孤独で辛辣な仕事だ。 千万の刀や槍を、自分に向かって刺し続けるような残酷ささえ孕んでいる、 夜は、どんな人にも平等に、鎮まれ、休まれと その闇の深い力で包み込む。 闇の力は偉大である。光が存在するのは、この闇あってこそ。 近頃、その闇に甘えている。 鉄板のように固まってしまった背中を癒すために ゆっくりと湯に浸かる。 今日のお風呂の友は「なんくるない」。 読みながら、夢のなかをしばし彷徨うが おととい、深夜のラジオで流れてきたあの歌が、からだのなかを 血の巡りよりも速い速度でぐるぐる回っている。 なんだろう、この歌の力。 ♪ もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい ありふれた日々が 君や僕の胸に積もって光る もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい 今 動き始めたものや もう二度と動かないもの 今 灯り出した光や 静かに消えていく光 もうすぐ今日が終わる やり残したことはないかい かけがえのない時間を 胸に刻み込んだかい ♪ (オワリはじまり/かりゆし58) きついなあ、と思う。 まだまだ。 自分を癒してなんぼの夜など、甘いんだよね。 # by riverpress | 2011-11-23 00:45
札幌で働いていたもう30年近くも前、 道庁近くの職場のすぐ隣に美術館があった。 三岸好太郎美術館である(現在は北2条西15丁目)。 明治36年、札幌に生まれた画家で 素朴な人物画から前衛的な絵画まで多彩な才能を発揮した。 昼休みで時間がとれたときなど 何度かふらっと寄ることがあったが、 ぼくに理解のできるような絵は多くはなかったように思う。 その後、盛岡に来て好太郎の妻だった三岸節子の絵を知ることになる。 初期の絵よりもむしろ晩年に近い頃の花の絵が好きで 彼女の特集のある雑誌や画集を何冊か購入した。 「生活の哀歓のすべてが絵画の道につながっている。 技を磨き、術を練ることじしんが、私の人間性の発見である」 との言葉は いまもずっと、ぼくの大切な言葉になっている。 盛岡に移住してからすぐに亡くなった画家だった伯父とも その生前から「節子さんの絵には、ぶん殴られるような気がするねえ」といったことを よく話していたのを思い出す。 この伯父も、北海道展の審査員を務めるまでにはなったが 最後まで清貧な生涯であった。 子どもの頃から、旅をする以外に、憧れてきたもの――。 音楽家もしくは画家。 このブログのいちばん最初に書いたのは確か、 女流画家でぼくの英語の(学校ではなくプライベートの)先生の話だった。 絵の具で汚れた先生のエプロン、 狭いアトリエ兼英語の教室に充満する油絵の具の匂い、 そしてモジリアニのような長くきれいな首の先生のプロポーション。 全部に、ぼくはぞっこん憧れていた。 素人の域は出ないまでも、学生時代から今日に至るまで 楽器の一つや二つを覚えて、何度か素人向けのステージには立ってはきたが 絵に関しては、1か月、カルチャー教室でスケッチを習って以来、 自分の才能のなさにすっかり興ざめし、きっぱりと諦めた。 画家になりたかったのではなく、 ただ絵の具の匂いフェチに過ぎなかっただけなのかもしれない。 O先生と初めて出会ったのは、 野の花美術館の新館長として就任したときの取材であったように記憶する。 静謐だが、内にはっとするほどの色香を秘め 口調はやさしいものの、モノも人も、その内奥まで凝視するかのような 鋭い視線を感じる人、というのが第一印象であった。 取材の最中も、 師匠でもある深沢紅子さんのスケッチをじっと眺めながら 線を指でなぞり、「この線、私にはまだ描けないんですよねえ」と 遠くを見るようにおっしゃったのを覚えている。 館長を後任に譲り、神奈川県から盛岡に移住する前後から 「家と人。」への連載をお願いすることになった。 原稿のやりとりはいつも郵送のみであり、お会いすることはめったになかった。 そのO先生からエッセイと画集を一緒にした本を出したいと 依頼があったのは、昨年末のことである。 これまでの作品と原稿を整理していただくことをお願いして 何本かの原稿は預かり、年明けから原稿の整理を始めていた。 おおよその準備が整い、本格的な編集作業に入ろうとしたときに 3・11の日が来たのである。 ようやく電話が通じたその1週間後、O先生は悲しい声で 「こんなときに、絵や本なんて、何の役にも立たない」といって 出版を断念することをぼくに伝えてきたのである。 ぼくはぼくで、そう思う気持ちも当然かもしれないと、その申し出を受け入れた。 再び、出版の話が浮上したのは、6月頃ではなかっただろうか。 昨年から予定されていたデパートでの個展に向けての制作が始まり その頃、「家と人。」23号の編集もスタートして、 アトリエにおじゃまする機会があった。 生意気にもそのとき、 O先生に向かって「絵にできることもあるのではないか」 というようなことを話してしまったのである。 仕事がほしいわけではなく、被災地の人であってもなかろうと こんな時期だからこそ、美しいものに向き合いたい気持ちを たくさんの人が抱いているのだと、ほんとうに素朴にそう思ったのだった。 O先生は目を伏せて「考えてみるわ」といい ぼくはその場をあとにした。 電話をいただいたのは、その翌日のことである。 「出してみましょう」と声は明るかった。 「ただ、条件があります。あなたが、序文を書くことです」 もう1本の序文は日本エッセイストクラブ賞をとったSさんの文章である。 一瞬唖然としたが、 いまここで、O先生のやる気を削いではならぬと、しぶしぶそれを承ることにした。 そうして、また一から作業をやり直すこととし 当初の文章主体の本から 絵と文章を一緒に載せた本とすることに決め、 全頁カラーのエッセイ&画集として編集が始まったのである。 といっても、これまで「家と人。」に連載してきた全作品を主体とし 個展に出品する新作を数点載せるため 締め切りぎりぎりまでその新作が完成するのを待って、それを撮影した。 最終的に全頁が埋まったのはつい2週間前のことであり 結局、編集には5カ月近くを費やしたことになる。 印刷会社から納品となったのは11時。 すぐに検品をし、O先生に電話をして在宅を確認し、お届けにあがった。 表紙のデザインはO先生自らが作品と淵の色を決めた。 「ああ、、きれいねえ」といってほほ笑んだ表情は、 これまででいちばんやさしく感じられた。 その場で梱包から数冊を取り出し、サインをお願いした。 できたてほやほやの本に、世界の誰よりも早く著者のサインをお願いできるのは 編集者だけの特権である。 O先生は「私、字がへたなのよねえ」といいながら、 ぼくの差し出した4冊に、丁寧にサインをしてくれた。 編集者がこんなことをいうのもおかしな話だが 画集で絵のことなんてわからない。 100号の絵も3号の絵も、同じ大きな誌面で扱うことに そもそも無理がある。 しかも、作品をいったん写真撮影をし、それを製版加工をし印刷をする。 二重三重のフィルターがかかることになり 素材感も空気感も、おそらくは半減どころか大半が失われてしまうのだ。 それでも、O先生の絵には力がある。 スケッチを怠らず、抽象のなかから実体をえぐり出す 三岸節子の絵とは対極にある、具象を極める力である。 「画家よりも文章家になりたかった」というO先生の文章は 風景のなかの温度や湿度までも写し取るかのような透明感にあふれている。 今年に入って3冊目のRIVER BOOKS。 本ができあがった日には、ぼくだけのヒミツの儀式をする。 父の位牌の下に本を置き、 「ありがとう」といって頭を下げるだけではあるのだけれど。 ![]() ※ 重石晃子 エッセイ&画集「道野辺に、添うて歩けば。」 四六判60ページ。定価2000円。 来週から県内主要書店にて発売。 タイトルは「家と人。」22号で特集したタイトルをそのまま採用した。 O先生が気に入ってくれたのである。 「重石晃子絵画展」 11月24日~30日 盛岡市 ギャラリーカワトク(5階) # by riverpress | 2011-11-16 23:47
きのうも今日も、朝から書く。 2日で11000字。 朝、アシスタントさんと「おはよう」と挨拶をし 一日の段取りを説明してからは これはどうしましょうか、といった声かけにしか応えることはない。 今日の会話は 「(MACの)テキストをワードに変換しておいてください」 「寒くないか」だけで、 彼女の帰り際、おなかの赤ちゃんが7カ月になって 大きくなったおっぱいとおなかを見て 「でっかくなったねえ」 の三つくらい。 自分を殺してまで愛想をふるうことをとても嫌う彼女は 黙々と自分の仕事に取り組んでいて、 しかし、気がつくと、いつもなぜか、本はできあがっているのである。 背中が重い鉄板のようになっているが 自分のなかでは、こんなヤクザな仕事なんて からだが動かなくなるほどがんばったって価値はないと そんな劣等感が常にある。 自分を追い込み、からだも精神も切り刻んでいくようなことでしか、 やりきれないこの気持ちと向き合う術はない。 それでも、いまくらいの時間(現在0時47分)には、ゆっくりとお風呂に入る。 肩まで湯に浸かり、よしもとばななの本を読む。 作者には失礼かもしれないが、ふだんは小難しい本が多いので リラックスタイムは、コミック感覚で読めるこの人の本がいいのだ。 かれこれ、この1カ月で13冊。すべて、再読。 その半分はブックオフという再販店から100円で買ってきたものである。 リラックスタイムとはいっても、鉛筆片手に線を引きながら読むのは いつもの読書と変わりはない。 しかし、である。 気がつくと、軽い気持ちで読んでいたはずが、どの本も棒線だらけになっている。 棒線を引いた箇所はすぐに忘れてしまうので 時折、まとめてメモ帳に書き写す。 「表面に見えるもの、それからその一枚下に見えるもの…」 「いつでも幸せは後にならないとわからない。 それは匂いやつかれなどの肉体的感覚が思い出の中にはないからだろう」 「寡黙な白磁のような端正な横顔を盗み見た。いつも遠い目をしていた」 など言葉の断片がぎっしりと書きこまれる。 あとになって どうしてこの言葉を拾ったのだろうと不思議に思うこともあるにはあるが 単純にいい言葉だなあと拾ったものもあるし いつか加工して使いたいと思うことも、 食べてしまいたいほど かわいい言葉もあって、脈絡はない。 それにしても、やさしい言葉で 人の魂のことを描けるこの作家の力量や深淵は 当初考えていたより、ずっとずっと計り知れないものがあって ナメててごめん、というのがいまの正直な気持ち。 できるだけ人さまとは言葉を交わしたくもないくせに アタマのなかも目の前のメモ帳も、 もちろんパソコンのフォルダのなかも、言葉だらけの日々である。 もともと夜型の人間ではないが 家族がみんな寝静まったこの時間になると 異様に冴えた静けさに触発されて、 いったんオフにしたパソコンを再度オンにしてしまう自分がいる。 ほんとうに自分が書きたいものを 発見できずにいるモヤモヤを この場を借りながら、探り続けて、1161本目。 1000本でやめてしまうと決めていたが、 まだまだ自分の魂の深いところが希求する「それ」が見つからない。 # by riverpress | 2011-11-15 01:15
画集の編集が先週でひと段落し あとは印刷の上がりを待つだけとなっている。 この10日間。 旧友たちと会い、東京、茨城を駆け巡り 帰盛後、間髪いれずに 税理士さんが来て、保険屋さんが来て、工務店さんが来て 写真家やデザイナーさん、印刷会社の営業さんが来て、 なんだかんだのその合間を縫って、一日5000字と自分に課して書く。 へなりと体調を崩すが これも運命と大げさにとらえ、 用事のない日は、一歩も外に出ずに書き続けた。 今月中に12万字という仕事。 これ以上、不調にならぬようにと慎重になりながらも ふと気付くと日々、夜中の1時、2時。 時折、縁側に出て夜空を眺める。 いつの間にか、南の空にはオリオンが変形四角形を描いている。 箱のなかには斜めに星三つ。 ギリシャ神話の世界を、ちょっと想像してしまう。 何の話だっけ。 でも、大好きな星座。 この数日は、庭の木々の影をはっきりと映すほどの明るい月夜。 蒼い世界は、真昼のそれとは対極にあって、 底知れぬ闇のなかに、トンボの羽とは比較にならない透明さで 少しだけ不気味な気配を見せてくれる。 冬なのだ、もう。 冷たい空気にアタマをさらしつつ夜空を眺めていると 自分の死が、いくつもの星の陰からチラチラとこちらを覗いているのがわかる。 いったい55年間も、何をやってきたんだろうと思う。 いまさら? 出会うもの、消えるもの、失ったもの。 みんな意思を持って、そういうふうになっているのだ。 存在が常に変わるのではなく 変わることを前提にして、すべてのものが在る。 そうして人は、時間に押し流されるように年を重ね、 大人になるようになっている。 ちょっとは大人になったかなと思う頃には、死が隣でやさしく微笑んでいる。 あいつがこんなにそばにいたなんて。 人と人とがこんなに生々しく ひとつの皮でつながっていたなんて。 やさしくしてもらってばかりいたのに、なーんにもお返しできぬままの自分。 子どもの頃からぼんやりと 自分のなかに ちゃんとした大人の社会とうまくやっていけない何かが潜んでいたこと、 ほんとは知っていたのだけれど、 まあ幼稚は幼稚でいいかなと思えるようになってきた。 このままだ、ずっと。 哀しいのは死ではない。 何もかもが、変転しなければならない、ということだけ。 # by riverpress | 2011-11-10 20:40
3日間ほど事務所を空けていたので 朝から仕事の整理、デスクや身の回りの掃除。 週明けに備えて仕事をするのだから、なんだかおかしな話だ。 午後、買い物のついでにレンタルビデオ屋に寄ってみる。 昨年、5年ぶりに会員証の更新をしたものの この1年、まったく利用はなし。 案内にDVD1枚無料とあったので、それにつられた。 借りてきたのは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『シチリア! シチリア!』。 ぼくはハリウッド映画より欧州の映画のほうが好きで とりわけイタリア映画はたくさん観てきた。 けっして映画のオタクではないけれど 好きな監督もフェデリコ・フェリーニを筆頭に、ピエトロ・ジェルミ、 フランコ・ゼフィレッリ、ヴィットリオ・デ・シーカ、 ベルナルド・ベルトルッチ、ルキノ・ヴィスコンティ…と少なくない。 いずれも、中学生から大学生になるまで大半の代表作品は観たつもりだが 『ニュー・シネマ・パラダイス』 (1989) 以降は 『海の上のピアニスト』『題名のない子守唄』とトルナトーレ監督の映画を 楽しみにしてきたのである。 『シチリア!シチリア!』(2009)はこの春、 盛岡でも1週間だけ上映されたが、出張が相次ぎ見逃していた。 それをたまたま、棚の端の端っこで見つけたのである。 ラッキーだった。 家に帰ってから、仕事をほったらかして、観る。 結論からいえば、自分のなかでの今年のベストワン。いや、この5年間の第一位。 小さな村、小さな家族、小さな生活、小さな諍い、小さな歓び、 小さな子どもの目から、 人の一生を俯瞰し鳥瞰し、それでいて道野辺の石ころから 世界を見渡すような視座を持って、 人が汗まみれで生きる瞬間瞬間を宝石のような美しさで切り取っていく。 カメラ、編集、シナリオ、俳優たちの演技に ゆったりと旅をさせられる。 その旅は、人生の短さを実感し、どんなにつらいことがあってもなお、 生きることは美しく、価値があると再認識する旅でもある。 そんな映画はめったにない。 まだ55歳の若さだが、この人はひょっとして、 フェリーニやヴィスコンティを超えるのはないかしらとさえ思う。 いい本を読んでも、感じたものは じっと自分のなかにしまっておくだけだが いい映画を観たあとは、誰かと歓びを分かち合いたくなる。 いい映画は、劇場で観ようがDVDで観ようが、 絶対的な力がある。 劇場で観ても、なーんにも残らない映画が、近頃、あんまり多すぎる。 ![]() ※ 『シチリア! シチリア!』 〔伊/仏〕BAARIA (2009年) 監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ 夢のように流れ去っていく人生の「時」は どの断片も濃密で切なく、美しい…。 さあ、いまこの瞬間も 大切に生きなきゃね、とそんな気分にさせられる名作中の名作。 映画って、こうでなきゃ。 # by riverpress | 2011-10-23 22:49
19日。 久慈の工務店さんたちとの情報交換会。 7社、9名参加。 震災では比較的被害の少なかった同地だが 直後から被災地の支援にあたり、 なかには陸前高田まで数時間かけて往復しながら 仮設住宅の設営に当たった方々もいた。 一人ひとりの話をじっくりと聞く。 こんな時期だからこそ、安易な家を建ててほしくないが それをわかっていても 予算のない家を建てざるを得ないという、苦しい思いが伝わってくる。 「俺たちも必死で働いた。だが、仕事なので金をもらって働いた。 無償で、誰かのために働いた人たちに比べれば、恥ずかしい思いしかない」 そう語ったMさんの言葉が忘れられない。 なんという謙虚さ、そして品格。 20日。 09時、久慈市内のDさん宅におじゃまする。 「家と人。」を読んでいただき、「家と人茶話会」にも参加され 3年前に家を建て替えた。 計画段階で、同居予定だったおばあちゃん、そして息子さんまで亡くされ その都度計画を変更し、念願の終の棲家を実現された。 あいにく、ご主人が病院で留守。 どうされましたか、と奥様に尋ねると、 大腸がんを患って、抗がん剤の治療中とのこと。 久々の再会にもかかわらず、がっくりと気持ちが沈む。 きっと、大丈夫。 心のなかで、祈る。 10時にDさん宅をおいとまし、宮古に向けてクルマを走らせる。 国道45号は、被災地に沿って伸びる海岸沿いの道である。 野田、田野畑、岩泉、田老。 かつて見た町も港も更地になっている。 だらしなく伸びた雑草がその更地を覆い、皮肉にも悲壮感を緩和して見える。 瓦礫の山をつくる重機の群れが、力強く感じた。 自然の前では人間など、 とはいうものの、人間の力は人間が考えるよりもはるかに大きなものだと思う。 クルマを止められる場所を見つけては 更地に降りて、海に向かって一礼。 今回はこのためだけに、数珠を持ってきたのだった。 生意気にもと思ったが「あとの日本は、岩手は、私たちに任せてください」と 海に向かい、小さな声で、宣言する。 12時、宮古のK工務店着。 前日、急に「宮古に来るついでに取材をお願いしたい」と電話があったのだ。 声をかけていただくだけでうれしかった。 被災地の撮影用にと、たまたまカメラもレンズもクルマに積んでいた。 14時前には前日同様、 工務店さんとの情報交換会がありし、その準備があるので 汗だくになって、写真を撮る。三脚も使わずに、申し訳なく思う。 15時、地元工務店さんとの情報交換会。 14社20名参加。 ここでも半数近くの方々が初対面だった。 宮古は田老地区が壊滅状態。 市内中心部も広い範囲で大きな被害を受けている。 商店街も店を再開しているのは3割ほどで、 あとは店そのものが流されるか 被災後に取り壊されている。 技術を磨き、温熱環境の向上に尽力し、自ら儲からない 棘の道を選んで歩んできた方々が 被災直後から現在に至るまで 雨露をしのげるだけの家を建てざるを得なかったことは 断腸の思いだったに違いない。 仮設住宅の仕事も、全国から送り込まれてきた職人たちに仕事が回され じっと眺めているしかなかったのである。 生まれ育った土地と仕事、家族までも失い、 二重ローンにあえぎながらいまを生きる地元の人たちのために 自分たちは何を成し得るかで、 みなさん、苦悩の真っただ中にある。 ここでも、一人ひとりの方々の話をじっくりとうかがった。 前日の久慈会場とはまた異なった意見が多かったのは 久慈とは比較にならない被災状況がその背景にあるからにほかならない。 「それでも、宮古でいちばん、いや、 岩手でいちばんの家を造り続けたい」と語ったSさんの言葉と 自分の非力を重ね合わせていた。 21日、帰盛。 # by riverpress | 2011-10-22 23:14
あ、今日はテーラーのAさんが来る日だな。 そう思ったのは、新聞に連載中の記事が載る日だったからだ。 朝起きて着替え、髭を剃り、 小さなサンドイッチとコーヒーをすすり、 歯を磨き、気分がセットできたところで新聞を開く。 えーと、どのページだったかなと思ったところで、ピンポーン。 やっぱり、Aさんだった。 朝、9時前のことである。 玄関ドアを開けながら「記事、読みました」といって 片足はもう上がり框までのっている。 「どうぞ、お茶っこでも」 と声をかけたころには、両足とも家のなかに踏み込んでいて いつも通り、事務所の3つ並んだデスクの真ん中の椅子に腰かける。 そして、大きな風呂敷包みを開いて、 「記事、よがんスた。うれしいもんだ。これ、私の気持ちです」と ビールの大瓶半ダースを、ぼくに差し出すのである。 いつもぼくの書く文章を丁寧に読んでくださり 自分の目にとまったその日、 すぐにクルマを走らせ、感想を述べに来てくれるのだ。 今日のいでたちは、50年前のスーツの上着をツイードの生地で リフォームしたというジャケット。 紺のシャツに紺のネクタイで、バシッときまっている。 「ダンディーですね」 と感想をいうと、Aさんは顔を真っ赤にしながら 「50年前のものです」といって照れた。 いまも二歳下の奥さんと二人三脚で細々とテーラーさんを続けている。 ずっと前に、息子さんがあと取りになると宣言したものの 「これからは量販店の時代」とすっぱりとその申し出を断って 自分の代で店をたたむことに決めている。 78歳。 失礼な質問と知りつつも「いつ頃、お考えですか」と尋ねると 「間もなく」と答えが返ってきた。 奥様とのなれそめをうかがった。 洋裁学校に通っていた奥様は「美人ではないが品があって」、一目ぼれ。 通学路だった洋館の前で何度か見かけたときには その洋館の令嬢ではないかと本気で思うほど、品よく見えた。 しかし、実際は盛岡郊外の農家の出身。 曲がり屋のような実家にあいさつに出向いて、 しっかりとした躾を身に付けた奥様に、惚れ直したという。 結婚してから56年。 「この女房で、ほんとうによかった」と微笑むAさんは、 いつもにも増して、ダンディーに見えた。 ユニキロや通販でしか衣類を買ったことのない自分には Aさんの職人気質を褒める資格などない。 唯一持っているスーツはこのAさんに頼んでつくってもらったものだが たまに袖を通してみると どんなに体型が変わっていても、からだにほどよくまとわり、 全体をさりげなく包み込み、着ているのかいないのかわからぬほど、 第二の皮膚のような着心地である。 「カトーさんなら10万でよがんス」といってくれたが 実際はその倍以上の値段がするものを作ってくれたのだと思っている。 「では、そう遠くない将来、 お父さんの代からのAテーラーは、なくなるということですね」 「そう決めてます」 写真を撮らせてください、といって ぼくは一眼レフに70ミリF2.4レンズをつけて、 Aさんの写真を何枚も撮った。 50年前にリフォームしたというツイードのジャケットが ファインダーのなかでは、少しだけ派手目に見えた。 もっと顎を引いてとか、背筋を伸ばしてというぼくの要求に Aさんはきちんと応えて、それでも両目だけは、生真面目にレンズをにらんでいた。 そのAさんが帰って、原稿を1本書く。 真剣に書いても、手抜きをしても同じようなレベルなので やっぱり真面目に、何度も書き直す。 息抜きの最中に、メールを確認する。 M子さんから今日新聞に載った文章について、短い感想が書かれていた。 いつもこうして、率直な気持ちを添えてくれる。 このM子さんも確か、Aさんと同じくらいの年ではないかと思う。 父はすでに亡くなり、母はこの地にはいないが 思えばこうして、父や母の代わりの存在となって こんな自分を見守ってくれる人たちがいる。 あまりある加護をいただきながら 何一つお返しもできずにいる自分が情けない。 # by riverpress | 2011-10-17 00:16
この10日間で60人ほどの人と会った。 会っただけではなく、取材をしたり、写真を撮ったり 一緒に食事をしたり、じっくり数時間、話をしたりもした。 いろんなことを学んだが、ふと振り返ると、 大きな声で話したり笑ったりする人が ほんとに苦手になったように思う。 いつのころから、こんなふうになったんだろう。 声の大きな人は確かに人を呼び寄せもするが ぼくはすぐに船酔いのようになって、 家に帰ってからも、次の日の朝までアタマのなかで、声が響いている。 かといって、か細い声の人もイライラとするが 一見、その場に静かにいられる人のほうが、 ほんとうは強い人なんじゃないかということもある。 結局は、人間の力が 場をつくるんだなあという、妙な結論になってくる。 かんたんにいえば そーいう人にはそーいう手の人が、こーいう人にはこーいう手の人が その周囲に集まっているのである。 子どもの頃、じいちゃんもばあちゃんも、 父の6人の兄弟姉妹も同じ町にいたので、ぼくの家にはいつも誰かがいた。 朝でも晩でも、平日でも休日でも ごめんくださいもおはようもこんばんわもなく、 玄関の引き戸をガラガラと開けて、勝手に入ってきては 誰かが当たり前のように、家のなかのそこらにいて、 テレビを視たり、お茶を飲んだりしていたのだ。 そして、おまえ、今日の靴下は汚いとか、近頃髪の毛がだらしがないとか、 ダイちゃん、いつ童貞を捨てるんだとか、 そういう話をもちかけては、 結論はきまって「だから、おまえはダメなんだ」となる。 じいちゃん、ばあちゃん、父の6人の兄弟姉妹が 一度に集まることも珍しくはなかった。 ただ、二度に一度は壮絶な兄妹姉妹の喧嘩が始まって いつの間にか、ぼくの隣でそれまで黙って新聞を読んでいたじいちゃんが 無言のままでちゃぶ台をひっくり返したり ときにはストーブの上の煮えくりかえったやかんの湯を そこらにあった杓子で、 喧嘩の最中の父や兄弟たちにぶっかけたりするのである。 いい年をした大人たちが じいちゃんの怒りをかって一瞬でシュンとなってしまうのは、 子どものぼくから見ても、小気味のいいものだった。 ぼくが、大きな声が苦手なのは、 子どものころにたくさん浴びることとなった、周囲の大人たちの怒鳴り声と、 それがピークに達したときに 誰かがちゃぶ台をひっくり返しはしないかという へんな恐怖感がトラウマになっているのかもしれないとは、 自分勝手な分析である。 ものすごい敏感さと人さまが「ハア?」と驚くような鈍感さが 自分のなかに同居しているのも、きっとそのためなんだと思っている。 とはいえ、静かな人にも三つの種類がある。 一つ目は、言いたいことをじっと我慢して静かな人。 二つ目は、何かをあきらめて静かな人。 三つ目は、どんな自分もどんな他人も許せるゆえに静かな人。 自分はどれに入るだろうかと考えると、 おそらくは一つ目。 まだまだ、三つ目の境地には到達できてはいない。 二つ目の、何かをあきらめて静かな人は、不気味でもあり、苦手なタイプだ。 ひょっとして、一緒にいるその時間、その場さえも あきらめているとしたら、誰だって、いやな気持ちになるに違いない。 でも、心のなかに内出血があって 静かにするしか方法のない人だっているのだから、 あまり安易なことはいえないのだけど。 とかなんとかで、たくさんの人と会って、 笑って、ときどき、クシュンとなって過ごした10日間。 苦手ではあるが、 意味も目的も超えて人と会うのは、やっぱり悪いことではないように思う。 孤独のなかからのみでは 見通せないのが人生というもの。面倒でも、人に揉まれ、洗われ、ナンボ。 修行、修行。 # by riverpress | 2011-10-16 00:35
「家と人。」23号が納品となり、 昨日、関係者や購読者への発送を済ませる。 1週間ほど前からアシスタントさんが 発送名簿の整理、ラベル印刷、同封用紙のプリント、 ラベル貼りなどの準備を進め 納品と同時に、カミさんを含め、3人でせっせと封筒詰め。 発送先によって部数が異なるので 細心の注意を払いながら袋や箱に入れていく。 この光景は誰にもお見せできない。 畳にペタンと座りながら、3人で、ただ黙々と作業をするのだ。 昭和30年代の貧しい家で 内職をしながら今日明日の生活の糧を得る、家族のような光景である。 この日だけで数百の発送。 今回限りで終わりにしようと思いつつ、20有余年。 「家と人。」の前には、同じく住宅誌「クラシェコ」 「新しい東北の住まい」などの編集を手掛けさせていただいた。 この分野の雑誌だけで43冊目。 単行本を入れると、60冊もの住宅関連の本にかかわってきたことになる。 そして、家のことも、人のことも ますますわからなくなっている自分がいる。 昨日は、北上でセミナーがあり、一時間ほど話をさせていただく。 プロ向けの会である。 終了後の懇親会で、初対面の方から 「2、3号あたりからずっと読者です」と声をかけられた。 旧知のKさんからは「やめちゃダメだよ」。 今日、本を届けたHさんは 娘さんと二人で本を手にとり「ほんとに、ありがとう」と満面の笑み。 思えば、何百何千という読者ではなく 身近な人に歓んでもらうのがうれしくて、ここまで続けてきたのかもしれない。 誰かのなかに、無理に踏み込んではいかないけれど、 そっと寄り添っていける存在になれたら、こんなにうれしいことはない。 そうはいっても仕事は経済。 拡散し解体するばかりの自分だが、本はまた、旅に出ていった。 「その人のそばにいるんだよ」 荷受に来た宅配のお兄さんに気づかれぬよう、ブツブツいっていたら 「なんか?」と聞かれたので、「独り言です」といってごまかす。 ![]() ※ 表紙は、第二特集でお世話になった漆職人さん。 いつも思うことだが 分野に限らず、職人さんの手の先って、ほんとうにきれいだ。 # by riverpress | 2011-10-07 22:42
1日。 雫石の物件を取材、撮影。 この季節、なぜか、雫石の仕事が多いのは不思議。 ピーカン。 ネットの日本俗語辞典によると、 ピーカンとは快晴の空がタバコのピース缶の色に似ていたという説、 快晴の日はカメラのピント合わせが多少曖昧でも 完全に合うことから『ピントが完全』を略したとする説などがあるそうだ。 築数十年の農家の建て替えで、田んぼのなかの一軒家。 稲刈りが終わったばかりの田んぼと真っ青な空。 クルマを走らせていても気持ちがいい。 家の取材のあと、家人の写真も撮らせていただいた。 70歳前後のご夫婦。 穏やかでハンサムなご主人と照れ屋の奥様。 いい顔だ。 いい顔の人に会うと、話をしなくても、清々しい気持ちになる。 2日。 朝、M子さんから電話。 「庭のブドウがたくさんなったので、差し上げたい」 図々しく、カミさんと一緒にうかがう。 亡くなったご主人が丁寧に育ててきたブドウである。 脚立を借りて庭に出て、 二階の屋根近くまで伸びたブドウの木から、 たわわに実った房をいくつも切り取る。 70代になったM子さんには、かなり危険な作業だ。 籠いっぱいになったブドウの大半を頂戴することになった。 ブドウの木に鋏を入れたのは、40年ぶりだろうか。 昔、実家の庭にもブドウ棚があって、 いまごろの季節になると、毎日のようにブドウを食べていた。 実が不揃いのブドウは、お店のそれより、ずっとおいしかった。 M子さんのブドウも、とびきり甘かった。 3日。 つい10日ほど前まで半袖を着ていたのに 朝から冬のような寒さ。 我慢できずに、ストーブをつける。 岩手山に雪。 事務所でも、2、3時間、エアコンの暖房をつける。 下半身が冷える。 アタマも冷える。 # by riverpress | 2011-10-03 23:26
ハルちゃんは、ぼくより一つ下の女の子である。 一つ下でもからだは大柄で 幼稚園のアルバムを見ると、ハルちゃんだけが飛びぬけて大きく 小学校に入ってから卒業するまで ぼくはついにハルちゃんの背丈を追い越すことはできなかった。 あんまり笑わない子だったけれど、 笑うとお日様みたいな明るさを感じさせる子だった。 ハルちゃんの家は、ぼくの家から歩いて3分くらいのところ。 おじさんは家の隣で青果卸の仕事をしていた。 家に遊びに行くと、果物の匂いが倉庫からふんわり匂ってきて おばさんはたまにだけれど リンゴやミカンやブドウをご馳走してくれた。 ほんとうはバナナを食べたくてしかたがなかったのが本音だったが 当時はまだ高根の花で、 金持ちの人か重病で入院している人くらいしか バナナを食べることはできなかった。 それでも、あまりものだとわかってはいても ぼくは果物にあやかりたくて、 週に何度かハルちゃんの家に遊びに行って 女子の遊びだった ゴム飛びやママゴトにもつきあったりしていたのである。 小学校に入ると 炭鉱の落盤事故がいくつかあって、その都度、クラスの友だちが 道内のほかの炭鉱や内地、遠く九州の炭鉱のある町へと引っ越していった。 何組もの家族がまとまって町を出ていくことあった。 そんなときには、学校の鼓笛隊が駅まで出て演奏し、 クラスのみんなが友だちとその家族が乗った汽車を見送った。 町はその都度、少しずつ寂れていって シャッターを閉めるお店も増えていった気がする。 昭和38年、バナナの輸入がようやく自由化になって歓んだのもつかの間、 ハルちゃんのおじさんの仕事も ちょっとずつ減っていったに違いなかった。 そんなことなど知りもしないぼくは バナナのおこぼれがほしいばかりに、ハルちゃんの家には 月に何度か遊びに行った。 週に何度から月に何度かになったのは、 自分も高学年になって、 周囲の男子から、女子と一緒にゴム飛びなんかをしているのを 笑われるようになったからだ。 それでも、黒くなりかけたバナナを おばさんからもらうのが楽しみで、 ぼくはハルちゃんと遊ぶのをやめなかった。 炭鉱の閉山が相次ぎ、たくさんの仲良しが遠くの町に去っていった。 クラスの子どもたちが3分の1になってしまうほどのときもあった。 町はいっそう寂しくなって 大工の伯父や絵描きの伯父も食えなくなって ときどき、遠くの町まで出稼ぎをするようになっていた。 ハルちゃんの家に遊びに行っても、 おばさんはぼくの前に顔を出すこともなくなった。 そこらの店先でバナナを見かけるようにはなってはいたが 「バナナ食いたい」というたびに 母は「男がバナナを食うと、チンチンが大きくなりすぎて、 鼻血が止まらなくなるんだぞう」 などと、わけのわからないことをいって、けっして買ってはくれなかった。 リンゴやミカンに比べると、まだまだ高価だったのだ。 その日も、ぼくは、ひょっとしてバナナにありつけはしないかと スケベな気持ちでハルちゃんの家に遊びに行った。 数週間ぶりのことで、 ハルちゃんがこの1週間、学校を休んでいることには気付かずにいた。 玄関のカギは締まっていて、家の隣の倉庫の電気も消えていた。 家に帰って 洋裁の内職をしている母に 「ハルちゃんち、真っ暗だった」というと 母は振り向きもせずに 「もう行くな」といった。 3区のスケゾウ君がそのとき「遊ぼ」と家の玄関を開けた。 自転車に乗って、二人で近所の公園に行った。 何気なくスケゾウ君に 「ハルの家、誰もいなかった」といったら、 スケゾウ君は「ハルんち、夜逃げしたんだって」 と表情一つ変えずにいった。 いったい何人の友だちが、親に連れられ夜逃げしたんだろう。 ぼくたち子どもも、今度は自分んちの番じゃないかって 内心ではビクビクしていた。 「バナナは、ほんとは青いんだよ」 と教えてくれたハルちゃんのおじさんの顔や、 黒くなったバナナを 「こんなんで悪いけど、腐りかけがおいしいんだよ」といって ご馳走をしてくれたおばさんの顔を思い出していた。 ぼくより背が高く、 太っちょのハルちゃんのことより おじさんやおばさんの顔しか浮かんでこないことが不思議だった。 小さな頃からバナナが好きな息子のためにと 家のバスケットには、いつも数本のバナナが置いてある。 ちょっと黒味が出てきたころがおいしいんだよ、 と教えても、黄色いうちに、ほとんど食べられてしまう。 ときどき、黒くなって見向きもされなくなったバナナを食べるのは ぼくの役目である。 # by riverpress | 2011-09-29 23:39
ストーブをつけなくてはならないほどの寒さが続いた。 ひどい雨も加わって、いやな冷えが身体の奥までしみ込んでしまったようだ。 ひどく体調を崩す。 おまけに、この連休、カミさんは所要で上京。 洗濯や掃除や料理をしなければならず、 それならエイ、っと仕事は勘弁いただくことに決めて 連休は家事の合間を縫ってソファに横になり、ひたすら本を読んだ。 読んだのは4冊で、いずれも400ページを超えるものばかり。 3日間ですべて読み終えた。 3冊は、以前にブックオフで各105円で買ったもので あと1冊は書棚にあったものの再読。 みんな同じ作家の本である。 ぼくはけっして多読家ではないが、資料の読み込みに加えて 人並みに本は読む。 以前はルポばかりだったが、最近は小説が多い。 読書という趣味の範疇にあるものではなく 資料と同じく、2Bの鉛筆を持ち、言葉を拾いながら読む。 半分は仕事のようなもの、と自分には言い聞かせている。 いい言葉だなあと思ったところに線を引き そのページの端をめくり、 特に心を動かされたセンテンスには二重三重の線を引いて、 さらにページのうえに矢印をつけておく。 時間があるときにそれらをメモ帳に書き写すためだが、 最近はそれもさぼって 線を引くだけのことが多くなった。 娘は小さな頃からぼくに負けないほどの本を読んでいたが 息子は誕生日に贈った高価な辞典さえ 燃えるゴミの日に出してしまうほど本という本に縁はなかった。 身体を動かすことだけが楽しくて 家の前のグラウンドで、町内の誰より遅くまで しかも一人になってもボールを蹴ったり、走ったりしてばかりいた。 その息子がまだ小学生のとき いったい読書の何がそんなに楽しいのかと 彼から真顔で問われたことがあって 確かそのときには 人は短い一生のうちで会える人の数も考えることの数も少ないのだから 本を読むことで、 死ぬまでにちょっとはその体験を増やしておくのだ、 というようなことを答えた記憶がある。 反応は「ふーん」という程度だったが、あのときの自分は よくもそんなシラジラシイことを述べたものだと恥ずかしくなる。 ほんとうは、活字を読んでいる時間だけ 現実から離れられるという、ただそんな程度のことでしかないのだ。 本に線を引くのは 仕事に役立てているんだぞという、言い訳でしかない。 頭とお腹の痛みを抱えながらも、それでも本に浸ることのできた3日間。 読んだ本から何を得たかといわれれば、 やっぱり、なーんにも自分の仕事にも、ジンセイにも生かせない自分がいる。 本を何冊読んだところで、まっとうに生きている人には、 かなうはずはないのである。 一つだけわかったことは、テレビをつけない3日間というのが どれほど快適で豊穣な時間であったかという程度。 # by riverpress | 2011-09-25 18:10
変わり続けていくこと。それが、現役。 それができなくなったら、退役。 テレビの評論家が、そんなことを話していた。 そうだとしたら、 ぼくはすでに、退役の部類に入る。 深めることすらできずに、変革などはあり得ない、と思ってきた。 「そうはいっても、経営、経済、それが基本じゃないですか」 いつか銀行の人も、 ニヤニヤ笑いながら、そんなことをいっていた。 何をいっても、どんなにいい文章を書いたって 儲かっている奴が勝ちなのだ、とその顔に書いてあった。 何度も何度も「融資はいかがですか」と こんな貧乏事務所を訪問しながら、 ぼくの編んだ本を1冊たりとも手にとることをしない、彼らの正論である。 結果を出すの結果とは、 どう生きるのかではなく、どれだけ儲けているのかだけが、現役としての指標らしい。 ぼくなどはすでに退役、退廃、衰退、 生きる価値すらない人間になるが、よく考えると たぶん、その通りなのだと思えてくるので、少し悔しい。 数字を出せない仕事ばかりに、没頭してしまう。 どこでもない、ここで。 ここだけではない、どこかで。 誰でもない自分と。 自分ではない誰かと――居場所がわからぬまま、停滞ばかり。 その先ではなく、足元の深くを知りたい、 聞こえぬ音を聴き、 見えないものの在り処を眺めたいだけなのだ。 しかし、進め、変われ、迷うな、考えるな――といった掛け声ばかりが聞こえてくる。 きっとその掛け声も、他からではなく、 自分のなかから発せられるものらしい。 目の前にある光景と 自分とのかかわりのよすがを失うことを、迷いというのだそうだ。 ブレない生き方を模索しながら、 変わることもできず 迷いっぱなしで経済と縁のない自分を、もてあまし気味の日々。 # by riverpress | 2011-09-21 00:21
次号「家と人。」の校正をほぼ終える。 23号目だが、こんなに苦労をした号はない。 震災後の混乱、といえばそれまでだが 締め切りにルーズな人は毎号、おもしろいほどに決まっていて それがこれほど顕著になった号もなかった。 掲載を依頼し、あるいは依頼され 誌面を確保していたにもかかわらず、ドタキャンになった誌面も多々。 本は最低4~8ページ単位で構成されるため 1ページ、2ページ、6ページなどの半端な空きが出ると その都度全誌面を再構成しなくてはならず、 代わりの記事も新たに考慮しなくてはならない。 考慮するだけではない。 新たに企画し、取材先を決めてアポをとり、取材と撮影をし 原稿を書き、写真を現像し、 それをゲラに組んで何度も校正するという とてつもない労力が発生してくることを、シロウトさんは理解していないのだ。 そうしたアクシデントが相次いで、誌面の構成をし直したのが6回。 結局、空きが埋まらず、4ページ減としての発行。 締め切りを律義に守って編集に協力していただいた方には 多大なご迷惑をおかけすることとなった。 新聞や雑誌への原稿書きとは異なり 本の編集は、「前」と「後」が大切な作業となる。 全体的にどんな流れの内容にするかは、特集ものの企画次第。 「家と人。」は大半が連載物で埋まっているが 特集になにをもってくるかで、誌面の色や香りががらりと変わる。 大変なのは「後」工程である。 著者は原稿を書きっぱなしの状態で送ってくる。 それを編集し、デザインをし、ゲラを組んで著者と編集で確認をする。 その作業を個々に最低でも3回繰り返す。 1号につき40人くらいの方々と関わっている。 3×40=120回のやりとりが発生してくることになる。 それらの個々がひとつの全体であり、 個々と個々が共鳴しあってまた全体になっていく。 その全体を見極めてから特集の企画をし 全体の色と流れを決めるのがこれまでの常だったが 今回は特集ものを先行した。 全誌面の校正を終えて、いつも思うことがある。 ほんとうに手前味噌でアホなことだが、ああいい本だなあと思うのだ。 何度もここに書いてきたように 「家と人。」という本は文字量がすこぶる多く、 端から端まで読めば、8万字から10万字と新刊書に近い文字量がある。 この文字は、全てが無駄のない情報である。 もっとも協賛をいただく誌面もあって そこのところは、ぐっと自分の思いを殺して書くことも少なくはない。 ただ、他の本と根本的に異なるところは クライアントの言いなりになって書く部分は皆無だということである。 そこには少なくとも、ウソはない。 文章で表現できない部分は、 写真からくみ取っていただくしかないのだが 取材ものは100%外部のライターには出さず 自分たちの目で見て、書くところに膨大な時間を費やすところに 決定的な効率の悪さがあって、少しも儲からないのが実情なのである。 あくまで単純計算だが、1号につき120回ものやりとりをしながら 本を編んでいく作業は この最終段階に近づけば近づくほど、苦悩が快楽にかわってくる。 多くの著者や取材先に洗われ、磨かれ、 突き落とされて、昇華され、 次第に自分が自分でなくなっていくような快楽である。 著者も取材先もこの時点ではすでに 個ではなく、「家と人。」という全体のなかに組み込まれている。 個もまた個でなくなってしまう、「非人称」の世界が生まれてくる。 発行は9月30日。 定期購読者へのお届け、書店に並ぶのは、10月中旬となる予定です。 ![]() ※ わずか80ページちょっとの「家と人。」だが 3校から、多いときで6校まで繰り返すと ゲラの束はこんなにもなる(-_-;) # by riverpress | 2011-09-14 22:36
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