09:15、ピンポーンとチャイムが鳴る。
こんなに早く誰だろうとドアを開けると、Aさんであった。
『家と人。』9号の特集の取材でお世話になった、
盛岡を代表する老舗テーラーのご主人である。
盆暮れになると、
お客さんとなった方々に名入りのタオルを配って歩く。
ぼくのところにも、年に2度必ず立ち寄ってくださる。
ここ何年かすれ違いばかりだったが、
今日はぼくのクルマがあったので、ピンポーンをしてみたのだという。
どうぞお茶でも、と声をかけると「実はずっとお話したかったのです」
といっていただき、うれしくなった。
Aさんは、以前と少しも変わらず、
英国製の最高級の布地をあしらったスーツに身を固め、
事務所に入り、ぼくの目の前に腰かけた。
身のこなしの細部に至るまでが上品で、男の色香がふわっと立ち上がる。
75歳になりましたよ、といって目を細めた。
齢(よわい)を少しも感じさせないのは、
抑制に抑制を重ねた、品のある立ち居振る舞いと
常に背筋をぴんと伸ばした、凛々しいその姿勢ゆえかもしれない。
スーツの形状や色の流行で世相がわかる、とAさんはいう。
「人が、もっともっと働かなくてはならない世の中になる」というのが、
今日の話題の中心であった。
ゆったりした着こなしではなく、身体にぴたりとくいつくようなスーツばかり。
それはとにもかくにも、スーツがお洒落の道具ではなく、
男たちの労働着に過ぎなくなったことを如実に顕しているのだという。
60年もこの世界で生きてきた職人。その言葉には説得力がある。
楽しい1時間であった。
帰り際、外に出て、Aさんがクルマに乗るまで見送った。
後ろを向いてニコッと微笑んだ顔は
運転席につくなり、工房にいるいつものAさんの顔へと変わっていた。
微笑のすぐあとに見せる表情にこそ、
その人の本性が見え隠れする。職業癖かもしれないが、
いつもそこを見逃すまいとする自分がいる。
職人としての誇りや
男として、人としての嗜み、
凛々しいモラルの片鱗が、Aさんの右の頬にきっちりと描かれていた。
いい顔。
いや、いい男、であった。