22日。
午後、いつもの喫茶店で
ヨーガのY子先生とお会いし、原稿・写真を受け取る。
しばし、世間話。
Y子先生はパソコンを使わない。
これまで弊社で上梓いただいた3冊の本も
すべて原稿用紙への手書き。
万年筆に似た200円くらいのペンの青い字で、原稿用紙を埋め尽くす。
文字には水のようなふくよかさ、
行間には女の人ならではの、艶と色香がある。
手書きって、いいなあと思う。
どんなに上手な文章でも、パソコンで変換されたそれは
必ずといっていいほど、
その人の数十%の何かが欠けるものだが
手書きの文字には、その人の何かがその人以上に刻印される。
23日。
午前、市内の物件を撮影。
アシスタントさんと2人で出向き、
いつものように、彼女は三脚でかっちり撮って、ぼくは手持ちで撮影。
カメラが優秀になったせいで
感度を上げ、手持ちで撮れるようになったのはメリット。
ただ、調子にのって感度を上げ過ぎると、
ノイズに悩まされることになる。
現像時、自分たちはカタログやパンフレットの写真にありがちな
極端な補正をしないため、ブレとノイズは大敵なのだ。
家を取材したり、撮影したりしていると
ここは設計者が押したところだな、あそこは施主の意向かしら、
といったことがよく見えてくる。
どんなに施主の意向に沿って設計された物件でも
設計者やビルダーのクセは体現され、
よくも悪くも、個性がくっきりと浮き出ている。
内容を必要以上にこねくり回したり、
細かなところにこだわり過ぎた家は、全体(空間)が萎んで見えるか、
疲弊した印象を放ってしまう。
文章、写真、絵画、デザイン、音楽にも同じことがいえるが
家にも「余白」へのデザインがどれだけ計算され、
徹底されているかで、設計者や施主のセンスと力量が如実にわかる。
一見、白にしか見えない原稿用紙の行間やエディトリアルの隙間、
家のなかの何もない空間にも
渇きや湿り、色や匂い、エロス、沈黙や音、
生の強さや絶望さえ内包されることを知る人は少ない。
削いで、削いで、削ぎ切った限界から
初めて滲み出るような美しさに、惹かれる。