リヴァープレス社
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編集室●〒020-0002 岩手県盛岡市 桜台2-15-6 TEL.019-667-2275 FAX.019-667-2257 Chief Editor 加藤大志朗 Daishiro Kato ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 以前の記事
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ライフログ
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じいちゃんやばあちゃんが死んでから、35年以上がたつ。 父が25年か。 父の死から10年もたたないうちに、父の兄弟姉妹が相次いで5人も身罷って いま故郷の町に、父方の血縁は誰一人いなくなってしまった。 いまでいうサハリン、当時の樺太から引き揚げてきた一家は 乳飲み子を抱えながら、函館、小樽、旭川と定住の地を求めて転々とし、 やがて炭鉱町に落ち着くことになる。 転々とするさまが、 日に数十キロも移動するというジャコシカのようだと、 よく嘲笑されたものよと、そんな話を何度かじいちゃんから聞かされた。 ジャコシカという鹿がきっと、樺太にはたくさんいたのだろう。 父はソ連(現ロシア)領と化した地に一人残って3年を過ごし ようやく北海道に引き揚げ、 家族と合流できた途端に、最愛の長兄を結核で失っている。 最愛の、といのうは のんべえできかなかったあの父が、その長兄の話をするときにだけ 何一つ表情を変えぬまま、 大きな両の目からはらはらと涙を流す様子を2、3度だけ、 このぼくに見せたからで、 勝手にそう推測しているのである。 「おまえが、あちこち旅ばかりするのは、俺の血なのかもしれない」 父から、そんなことをいわれたことがあった。 その顔がとても悲しげに見えたのは、 移動をするということそのものが、父にとっては、 夢を追うことでもなんでもなく、屈辱の軌跡でしかなかったからだろう。 「どこにでも行け。なんでも見て来い」 という大らかな母とは正反対の、 そんな父を小さな人間と毛嫌いしたこともあったけれど、 他力によって故郷を離れざるを得なかった彼らの心情は、 いまのぼくにも、その万分の一すら理解できてはいないのだと思う。 「北海道の魚など、喉を通らない」 父はそういって、頑なに、魚を食べることをしなかった。 樺太の豊饒の海で 漁師をしながら売れない画家でもあったじいちゃんの獲る魚だけが、 父にとっての美味しい魚だった。 流れに棒を立てておくと、 それが倒れないほど、その棒をこするように大量に川をのぼるサケの話や 浜辺に数分間リンゴ箱を埋めておくだけで それが満杯となるニシンの話は、いやというほど聞かされて、 北海道の魚と比べ「岩手の魚など、喉を通らない」 と家族に向かって偉そうに語るぼくが、 いま、ここにいるのは皮肉な話である。 ほんの数年前まで、父祖の地ともいえるサハリンに行ってみたいと あれこれ計画していたものの、 いまはすっかり、その気力も失せた。 テレビで、あの国の首相や閣僚たちの顔をみるたびに 父の故郷を奪った彼らの領土など、 一歩たりとも踏みたくはないという思いのほうが、強くなってしまったのだ。 須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」は 「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも 歩いていけるはずだ。 そう心のどこかで思いつづけ、 完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、 私はこれまで生きてきたような気がする」 をプロローグに物語が始まる。 あ、これは父で、ぼくで――と思ったのは再読時であり 最初に読んだときには何も感じなかった。 父の一家は、望まずして転々とし、ぼくは自ら望んで放浪を繰り返してきた。 長兄を失い、一家の長となったその父が死ぬまで、 じいちゃんやばあちゃんの墓を建てようとしなかったのは、 北海道という地に行き着き、 最期のときを迎えるまで、それがきっちり足に合った靴ではなかったことへの ささやかな叛乱ではなかったか。 そしてぼくはいま、北海道ではなく、この地に散骨や樹木葬を含めた 終わり方を願うようになっている。 この家の長男としてできることは、じいちゃんやばあちゃん、 そして父の骨までも一緒に この地でも彼の地でもない、 そこらの地や風や海に解放できたらと思うようになってきたのだ。 自分に合う靴がないなら、 裸足になればいいだけの話である。 心に秘めてきたこんな話を この間、おそるおそるB型母に打ち明けたら、 「おお、やれやれ。骨など、みーんな、そこらにばら撒いてしまえ」 モノだって、人だって。 ぼくたちは、ほんとうは、何も見えてはいないのだ。 いったん失って、 それをあちこちのたうち回って、ようやく再発見をしたり、 再認識、再会、再読をするという手続きを踏まないうちは。 35年、25年という歳月が流れてもなお、 問いかけてくる、じいちゃんやばあちゃん、父、 おじちゃんやおばちゃんたちがいる。 そんな彼らの足跡や思いが、いまになって、 当時とは全く異なる画像や空気感でうっすらと見え始めたのは、 ほとんどが50代であの世へと旅立った彼らの歳に、 自分も日々刻々と、近づいてきたからかもしれない。 長田弘さんの、この詩を時折、 ひとり言のようにして呟くことがある。 ――人は誰も生きない、 このように生きたかったというふうには。 ▲
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| 2011-05-25 01:43
気力のない日が続く。 いつもながら金欠だけど、撮影や編集、打ち合わせと やるべきことは少なくない。 健康なのだから、 生きてるだけでも…どこからか、そんな声が聞こえてきそうだが プラス思考やカラゲンキだけで生きていけるほど、 大人は強くないんだよ。 音楽も絵も写真も映画も本も好きだけど 文章を書くことは、いまでも、どうしても好きになれない。 孤独に耐えられないのだ。 ただ頭に浮かんだことを書き連ねていけたら、どんなにか幸福だろう。 それができないのが仕事というのは、わかってはいるが。 この1週間で、2万字ほど書く。 撮影したカットは360カット。 出来不出来にかかわらず 真面目に立ち向かえば立ち向かうほど、仕事には孤独がつきまとう。 きついな、いま。 岡本太郎と母かの子との会話に、こんなやり取りがあった。 太郎「あなたにもらったのは、孤独だけだった」 かの子「孤独を持てないことは、もっと悲しい」 母親にくってかかる太郎に、かの子は鬼の形相でさらに強く迫る。 「孤独を怖れちゃだめだ。じゃないと、ほんとうに欲しいものは手に入らない」 夢を持て持てといいながら、 ホントは無難で安定した道があなたのためなんだよ、といってるような 昨今の学校や親たちは、 かの子のこうした態度を、どう感じるだろうか。 孤独を感じられない大人なんて、大人じゃない。 孤独は大人のなかの大人の、特権。 だからこそ、子どもに孤独を感じさせてはならないのだ。 ほぼ10年ぶりに、本を書くことになりそう。 先日、久々に連絡をとった出版社の編集者が、話に耳を傾けてくれた。 残念ながら、エッセイや小説ではない。 仕事の範ちゅうの本。 死ぬまでに1冊、ただ頭に浮かんだことを編んだ本を出したい。 どんなに孤独でも、いつも震えていたい。 老いとか死とかが、 向こう側でそっと、ぼくの叫びに耳をそばだてているのを感じる、今日この頃。 ▲
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| 2011-05-24 00:10
12日(木) 建築家Yさん設計の物件、撮影。 先月に購入したばかりの新機種PENTAX K-5を 初めて現場で使う。 帰ってすぐに数枚現像してみた。 4年前に買ったPENTAX K20Dのほうが、 空気感まできちんと表現できている。 素人ウケを意識して 高画素、高感度に特化するあまり、 基本が失われていることに、少し落ち込む。 もっともレンズが普及品、腕も下級品なのでしょうがない。 Yさんに申し訳なく思う。 13日(金) 午前、原稿のための資料整理。 午後から深夜まで現像。 14日(土) この数カ月、背中と肩と首のコリがひどい。 コッたところに、五寸釘を打ち付けてほしいほどだ。 ふつうはカラスの行水のような入浴なのだけど ここ数週間、本を持ち込み、ゆっくりと湯につかることにしている。 きのうからは、須賀敦子さんの「ヴェネツィアの宿」。 短文の一編を読みきるまで、じっと我慢して身体を温める。 この人の文章はいわゆる名文ではないものの、 石畳の路を歩くときのように、コツリコツリと静かな音をたてて 自分のなかに情景が染み入ってくる。 文章の力で勝負しようとしているのではなく、 自分のなかにあるものをいったん深く掘り起こし、 あたかも七宝焼きを創るときのように まずは輪郭を描き、染料を選んで色づけをし、 焼き上げ、研磨をするという幾多の工程を経ながら 表現を試みているかのようである。 一文一文が深い艶を放つのは、そうした手間の積み重ねによるものだろう。 もっとも、風呂のなかで読んで、 偉そうなことなどいえないのだけど。 15日(日) 早朝から、原稿を一本。 11:40、フォーラム盛岡で映画「白いリボン」を観る。 (監督/ミヒャエル・ハネケ オーストリア=フランス=イタリア=ドイツ) 144分。全編モノクロ。 男と女、大人と子ども、聖職や男爵、農民…と あらゆる種類の人間のなかにうごめく善と悪を、丁寧にあぶり出していく。 久々に、ずっしりと重い映画。 自分のなかでは、この5年でのベスト1。 映画のあとで寄った、ラーメン屋。 アナログテレビのラグビーを眺めながら、「いけー、いけー」と 一人のオヤジが大騒ぎしていた。 ぼくは、こうしたオヤジを心から尊敬する。 岩手に足りないのは、この手の上質なアホなのだ。 心のなかでひそかに、 このオヤジに向かって「いけー、いけー」とエールを送る。 16日(月) やらなきゃならないことが、溜まりに溜まってきた。 こんなときにはいつも、 メモ用紙に、やらなきゃだめなことを番号をふって、 書き出すことにしている。 ストレスは、それらに手をつけている最中ではなく 手をつけられない状態のときのほうがはるかに強く作用する。 10まで書き出したら、少し安心。 15時までに3400字を1本完成。 庭のチューリップが散り始めた。 ヒマワリの次に好きな花。 花の黄は、希望と元気の色だ。 夏の気配。 ![]() ![]() ▲
by riverpress
| 2011-05-16 23:18
6日(金) アシスタントさん、8日ぶりの出勤。 この連休を利用し、1年ぶりに茨城の実家に帰省していた。 自分の娘より若いのに、子育てと仕事の両立。 ご両親も、1年ぶりにお孫さんと再会し、うれしかったに違いない。 朝から二人で読み合わせの校正。 一字一句、見逃すまいとゲラを凝視する姿は、鬼気迫るものがある。 自分も声を枯らしながら、読む。 親から遠く離れて生きる人は、どこか根性が据わっている。 小娘などに負けてなるものかと、イビツな闘争心を抱く自分がアホみたい。 午後、青森在住の読者・H子さん、来所。 青森市の講演で初めてお会いしたのがご縁で、 その後「家と人。」はほぼ毎号購入いただき、 家と人茶話会にも参加いただいたことがある。 盛岡での用事があって、 そのついでに「家と人。」の新刊を購入しに来てくださった。 本より高価なお土産を頂戴し、恐縮。 被災地のことを想うたび、自分に何ができるかを考え続けてきたという。 切々と「何もできない自分」を語るときの表情が尊く見える。 男も女も、嘘のない自分と向き合うときの顔は、 性を超え、美しい人間の顔となることを、知る。 7日(土) テレビのニュース。 南相馬市で写真屋さんを営む方が映し出されていた。 一か月遅れの入学式の撮影で忙しい。 店は被災し、現像機器の大半が使えない状況下で 小さなパソコン一つで現像を続けている。 津波の瞬間も、カメラを取り、シャッターを切った。 が、2、3カットでやめた。 涙があふれて撮影できないせいもあったが「これは、ぼくの仕事ではない」 と思ったのだという。 金になる仕事なら、なんでもするのも肯定されるべき生き方だが この人は撮らないことを選択した。 ほんとうのプロの姿。 8日(日) あらゆる情報を意図的に遮断する。 今日一日は、呆けたアホでいいと決める。 暖かくなってきたので、南エオンにあるユニキロにシャツを買いに行く。 知人のYさんに、 ユニキロなら、あそこがいいよと教わったのだ。 ぼくはエオンの建物に入ると、なぜか無性に腹が立ち、 次第に閉所恐怖症みたいになって、気分が悪くなってくる。 この日も同じ。 10分と売り場にいることができず、リネンの白いシャツ1枚を買って すぐに建物をあとにする。 あの建物にいる人の誰一人として幸福に見えないのが、いちばん怖い。 午後、色川武大のエッセイ集を読む。 再読。 「以前は、幸福ということを口に出すのは女だった。 当今は、男がそういうことをはずかしげもなく口にする。 家庭の幸福だなんて、バカげたことをいって、それ以外のものに目をつぶる。 男は暴れて死ぬものだし、女は恥をしのんで生き残るものだ」 以前読んだときの線が、ここに引いてあった。 いま、日本のリーダーたちに必要とされる素養は、 オンナ子どもは黙ってろ、 このオレさまに黙って任せておけ――的な男なのかもしれない。 特に政治家には。 9日(月) 朝から読み合わせの校正。 左目がいよいよ見えなくなってきて、つらい。 360ページ。 6時間ぶっ続けでやっても、赤字を入れながらなので60ページも進まない。 アシスタントさんの小さなため息に、申し訳なく思う。 17時でダウン。 10日(火) 10時30分、B新聞社で打ち合わせ。 17日までに25000字…。 事務所に戻ってすぐに、資料の整理スタート。 書けるかな。 15時。 K大学・S先生、来所。 県の仮設住宅の公募に独自の案を応募したが、 今回の採用は見送られる結果となったという。 S先生の案は、 性能的にも次世代省エネ基準をクリアし、 解体後の再利用までも視野に入れた、 おそらくは日本最高レベルの性能を有した仮設住宅。 S先生の言葉を借りれば 現地で試作棟(2戸で1棟の長屋形式)の組み立ても行い、 提案が岩手県庁に採択されれば、 被災地域の地元工務店によって、60戸建設される予定だった。 地元のパーティクルボード工場、パネル組立工場、 その他各協力企業にもお金がまわることになる。 窓もストーブも岩手に工場のある製品を優先した仕様――。 採用された企業リストをみると、 確かに、被災地の企業はほとんどない。 新潟中越地震のあとに各地で設置された仮設住宅は 結露・雨漏り・カビ・暑さ寒さなど構造上の問題がたくさん指摘されたが 今回もそれとほぼ同じ仕様の仮設住宅が、 より寒さの厳しいこの岩手の地に建てられることになる。 人を守るための家でさえ、 生活の質より目先の経済性、地方より中央が優先される。 そうした構造が、 仮設住宅までに一貫されていることが悲しい。 本震から間もなく県内各地を奔走し、 わずか一カ月でこれほどのプロジェクトを立ち上げた。 結果は残念だったかもしれないが、 その一連のアクションは、 深い専門知識もさることながら 人としての、当たり前過ぎるほどの善良さに基づかれている。 帰られたあと、ただただ、そのことに、泣けた。 「結果がすべてだ」と人はいう。 だが、ぼくは、けっして、そうは思わない。 ひたすらに「何もできない自分」を凝視する人。 結果は得られずとも、 自らの良心に忠実であろうとする人。 ほら、惨めな自分と向き合うだけさ、という人もいるかもしれないが ぼくは、そういう惨めさも 尊く、大切なものと考えたいと思います。 ▲
by riverpress
| 2011-05-10 23:21
4/30 S新聞・T記者来盛。 声をかけていただき、夜、二人で飲む。 被災地での取材、ボランティアの体験、 活字でできること、できないこと。 立場は少し異なるものの、言葉を扱う者同士で話は尽きない。 ぼくより10歳も若いのに この5、6年でご両親を相次いで亡くされた。 お母さんのときは奥さんが お父さんのときはTさんが、病床にあったご本人たちから 丁寧に言葉を拾い、記録をし、それを残した、との話に感動する。 詩や小説でなくとも、 言葉を残す、そしてそれをすくいあげる作業はとても尊い。 当日、6、7時間も運転し 疲れているはずなのに深夜まで話し込んでしまい、申し訳なく思う。 5/1 ぼくは、桜の季節がどうしても好きになれない。 一つ目は、桜が苦手。 その理由は、これまで何度も書いた。 二つ目は、春になると、すぐ夏が来て、またすぐに秋が来てしまうこと。 日曜日の午後2時のような気分。 いちばんいい時間のはずなのに、休みの残り時間はあとわずかだし 頭のなかは月曜日からのことでいっぱい、っていう感覚。 加えて、テレビ、新聞、ラジオからの被災地の様子を告げる情報の山。 春でも、日曜日でも、健康でも、少しも気が晴れないが 朝、素晴らしい言葉をいただいた。 この何十年も観ている「題名のない音楽会」。 佐渡裕さんの指揮でオペラ歌手の福井敬さん、森麻季さんたちが歌った 「Make our garden grow ぼくらの畑を耕そう」。 We're neither pure, nor wise, nor good. (ぼくたちは純粋でもないし、賢くも良い人でもない) We'll do the best we know. (ぼくたちはできることを一生懸命やるだけ) We'll build our house and chop our wood. (家を建て、森を拓く) And make our garden grow... (そして畑を耕す) 指揮者、演奏者、歌い手たちの表情に、深い祈りが見て取れる。 テロップで流れる歌詞を目で追っていると、 涙があふれてくる。 いつの間にか隣にいたカミさんも、じっと聴き入り泣いていた。 目の前の現実を深く見つめることで 発見できる道もある。そんなことを、音楽から教わった。 2日 朝いちばんでデザイナーさんのところに行き、 そのままM先生宅。 校正は赤字、赤字、赤字。 夕刻まであちこち走って、帰宅後は整理、整理、整理。 3日 朝、テレビをつけたら「てっぱん」総集編。 一気に観てしまった。 繰り返される「ありがとう」の言葉が、強く心に残る。 ▲
by riverpress
| 2011-05-03 18:36
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